いつでもどこでも映画と読書、あとなんだろう
by ののちゃん
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いままでで一番通った店は、居酒屋だと思う。これは紛れがない。
それが一ヶ月に十日の飲酒。辛か~。 休肝日の過ごし方ってむつかしい。それで学生時分に戻って、いつでもどこでも映画と読書に明け暮れようと思う。大好きな川上弘美さんは、読書三昧の毎日を、なんだか彩りに欠ける人生ではありますと謙遜して書いていた。う~ん、こちらは実感だなぁ。
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衛藤瀋吉先生を偲んで

 衛藤瀋吉先生がお亡くなりになられた。享年、84才。

 僕にとって、先生は太陽のような存在でした。それは、10代だった頃から、50代の今日に至るまで変わっていない。
太陽と書きましたが、北斗七星のようでもあり、月のようでもありました。
憧れのすべてでした。

 お名前を知ったのは、鈴江言一について書かれた文章からでした。“日本人の中国観ー鈴江言一をめぐって”というタイトルでした。
岩波書店の“思想”、そして“世界”へと書き次がれました。

 僕の父は元南満州鉄道株式会社(通称満鉄)に勤務していました。終生、中国が大好きでしたので、その影響もあって、先生の文章はなんとも胸苦しくなるような、心を打つものでした。
詳しい内容は、退官の年に、衛藤瀋吉・許淑真著“鈴江言一伝”(東京大学出版会)として、本格的な本にまとめられました。

 もう一つ、忘れられないのが、福田歓一先生との“日本の安全保障力をどう高めるか”をめぐる対談です。筑摩書房の雑誌“展望”であったと記憶しております。
ナショナル・セキュリティーは、ふつう安全保障と訳しますが、先生は安全保障力という言葉を使われました。このことは対談でも、福田先生が指摘しておられたと記憶しております。

 このタイトルの論文で、先生は、第一回吉野作造賞を受賞されました。この論文と“安全保障力と国際政治の法則”という論文は、対で読むのがふさわしいように思います。
先生のお考えがパノラマ的に展望できるような気がするからです。もちろん、研究者衛藤瀋吉の全容はとてつもなく巨大な山脈であり、二作の小論に収斂するものではありません。

 しかし、これらの論文では、小林直樹、坂本義和、福田歓一、石橋正嗣から、村松剛、源田実など、当時の左右を代表する論客の主張に謙虚に耳を傾けながら、
日本は武力に頼らない総合的な安全保障力を高めるべきであり、国際紛争には“非介入の論理”を貫くべきであるという姿勢が一貫して主張されております。それでもどうしようもない有事には、魂のチカラを強調されました。

 冷徹な現実主義者衛藤瀋吉の面目躍如のスタイルが通低しておりますが、先生は冷血漢とは対極にあるお人柄でした。コーヒーとピーナッツがあれば、学問や理想主義については飽きることなく議論することが、ことのほかお好きでした。

 心のそこでは、“これからはかくあるべきである”とおっしゃりたい側の陣営におられました。
しかし、国際関係論と日中関係史の研究者のお立場では、人智の及ぶ限り、科学的でありたいとのお考えでした。価値自由を目途とされておりました。

 国際関係を冷徹に分析するリアリストとして紹介するのなら、次のエピソードが具体的であると思います。

 1972年2月に、ニクソン訪中がありました。そして米中共同コミュニュケが発表されました。
NHKは臨時ニュースを流しました。“アメリカは台湾から撤退する”ということが発表されました。
NHKの磯村尚徳外信部長(当時)が共同声明の解説を行いました。

 その少しあとの民放の生番組で、中国問題専門家のお立場から衛藤瀋吉先生は次のように話されました。
“アメリカは、台湾海峡をはさむ二つの国が、中国は一つであると主張していることを理解している。アメリカは究極的には台湾から撤兵するだろう”と分析されました。

 “究極的には台湾から撤兵するだろう”と“台湾からの撤兵”は明らかに、違います。この分析は、当時の雑誌“自由”に精緻な整理がなされ、発表されました。
そこでは、共同コミュニュケの表現形式での、中国の外交の優勢についても述べられておりますが、まことに微妙な部分が読み解かれ、明示されました。

 当時の論壇では、“自由”と先の“世界”は、対極にありました。中間に、“中央公論”があり、保守色を強めたのが“文藝春秋”でした。より保守色が強かったのがオピニオン誌の“諸君”でした。

 衛藤先生は、昭和40年代前半は、“中央公論”や毎日新聞社、40年代後半から“文藝春秋”、“諸君”の執筆が増えていきました。
当時、中国について辛いことを書くと、保守、右傾化とする傾向が顕著でした。
衛藤先生のお考えには些かのブレもないのだが、それも時流の変化というものなのでしょう。しかし、衛藤先生は中国報道の偏向にも容赦なく、立ち向かいました。

 衛藤先生は阿諛迎合を峻拒するのが、見識であるとされました。

 ‘72年9月、田中訪中が実現した。田中内閣成立後、わずか3ヶ月後のことである。
当時、台湾入口論と出口論がありました。すなわち、日華平和条約を廃棄してから中国との国交正常化のテーブルに着くべきというのが入口論であり、それは国交正常化がなされてから考えればよいことというのが後者の出口論である。

 もちろん、中国は入口論を国交正常化の原則だと主張しておりました。

 衛藤先生は一貫して、後者でした。台湾への配慮はもちろんのこと、アセアン諸国との信頼関係も勘案された上での総合的な判断からでした。
田中訪中でマスメディアが狂騒であったころ、先生は“大国におもねらず小国を侮らず”という時評を書かれ、“文藝春秋”に掲載された。

 その後は、亜細亜大学の学長、東洋英和女学院の院長など、私立大学の改革に尽力された。
訃報の記事のほとんどは、その功績をたたえるものでした。

 衛藤先生ご自身は、大学経営を専らとされたことを悔やまれておられた。
やはり、学問に費やされるべき大切な時間を失われたように思われます。

 先生は広島で被爆されました。
“朝まで生テレビ”に一度だけ出られたときに、“僕は広島で被爆したのですよ”と口にされた。
高野孟なる評論家が、“先生、あまりそのようなことは口にされないほうが・・・”と訳知りにたしなめたものでした。じっさい、程度の低い評論家には閉口します。
戦争や核の恐怖へのイマジネーションを欠いた浅薄な発言でした。
ふだんは、トリビアルなことに差別だと大騒ぎするのですが・・・肝心要のことになると、これでは困ってしまいます。

 東京大学教授というエスタブリッシュメントの只中で、進歩的知識人の道を全うするのは存外、簡単なことではないだろうか。
丸山真男のような思想の天才なら、それがプラスに作用しています。
だが、ごく一般には毒にも薬にもならない紙くずのようなペーパーしか残らないのではなかろうか。

 衛藤先生は、自衛隊の海外派兵には断固、反対のお立場を貫かれた。イラクは始めから反対をされた。
中国や朝鮮半島の人から、“謝罪しろ、謝罪しろと際限なくいわれれば、それは腹も立つでしょう”。
でも、やはり“何度でも日本は間違っていたと言うべきだ”と説かれた。

 往時の日本共産党から、ブルジョワ・ナショナリスト衛藤と面罵された先生は、北京大学客座教授を勤められている。
お父上は瀋陽の図書館長であり、そこから瀋吉の瀋となった。
先生は真の日中の友好について、一生を通じて説かれたと僕は思っています。

 先生の輝かしい学問的所産は全集10巻(東方書店)に残されている。
教養部の講義録“近代東アジア国際関係史”(東京大学出版会)も楽しく、勉強できるように工夫されていて、考えてみると先生はご自身で謙遜しておっしゃられるようなエゴイスティックな研究者ではなかった。

 今、凄みを帯びた研究姿勢と無限のやさしさを、懐かしく思い出しています。

 久我山に向かって、合掌。

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by nonoyamasadao | 2007-12-19 15:46 | 雑文 | Trackback | Comments(0)
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