いつでもどこでも映画と読書、あとなんだろう
by ののちゃん
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いままでで一番通った店は、居酒屋だと思う。これは紛れがない。
それが一ヶ月に十日の飲酒。辛か~。 休肝日の過ごし方ってむつかしい。それで学生時分に戻って、いつでもどこでも映画と読書に明け暮れようと思う。大好きな川上弘美さんは、読書三昧の毎日を、なんだか彩りに欠ける人生ではありますと謙遜して書いていた。う~ん、こちらは実感だなぁ。
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季節の感傷

 朝、起きると、いつも寒暖計を見る。
この数日は、21℃以上だったけれど、今朝は20℃とちょっとだった。

 昨晩は、冬至だったので、柚子湯に浸る。
思えば、去年は冬至を忘れていて、柚子湯に入らず、どってことないさと嘯いていた。
年明け早々、日帰り大阪出張の帰途の飛行機で、突然、ザワザワと悪寒がする。
案の定、ん何十年ぶりかのインフルエンザに罹ってしまった。長年の習慣は、できれば変えない方がよいな。
あ、ボクはインフルの予防接種をしない、主義です。ようは、注射大嫌い人間なのである。
39度後半の熱はきつくて、勤務先にはたいへん、迷惑をかけた。
やっぱ、冬至は柚子湯に入らないといけないなぁと痛感する。

 老母が買ってきた3個入りの柚子を、もったいないから、2個だけ使用する。
本当は、最低でも7~8個を投入して、黄色い柚子をプカリプカリと浮かべて、柑橘の匂いいっぱいにすれば、サイコーだろうなと思う。

 たったの2個だから効果的活用をはかろうということで、爪楊枝で、それぞれに5つ6つ穴をあける。
これって、そうとう邪道だろうなという気がする。
湯船の中で、いいのかなぁ~と思いつつ、すこし、浮かんだ柚子を絞ってみる。

 傍らにある箱根の温泉の素が目に飛び込んできて、これを入れようか、いや、入れるのはぶち壊しだろう、第一、野暮ではないかと、すこしだけ逡巡する。
ええい、入れてしまえ~てんで、柚子湯だか、温泉の素の湯だが判然としなくなり、いつもの癇癪持ちを後悔する。
スケールちっちゃいな~。
それでも、柚子の酸っぱいような、懐かしいような香りが湯から立ちのぼる。

 秋らしいものは、急ぎ足で移っていく。ついこの間まで、暑いと言っていたのに…みたいな感じだ。
まだ、近くのイチョウ並木は黄葉のさなかだが、いつもの通り抜けする大学のイチョウ並木は、すっかり落葉している。
突然、あたり一面、冬の気配になってしまったなと思う。

 あ、今日、公の場所で、リア充という言葉を聞いて、現実とヴァーチャルを相対比較する時代なのだな。。。と、思う。
現実世界のなつかしい匂いや、本当の意味での胸キュンを希薄にする、言語感覚だよなぁ。。。と、さみしい。

 けれど、季節の始まりや終りへの哀惜など、若い時には、実感などしなかったな。
いつの間にか、コートを着てたり、吐く息の白さで、あ、寒くなったんだ~って、思った。

 この季節は、コートを襟を立てて歩くのが好き。。。と話していた、あまりらしくないことを言った大学の先輩がいたなあと、遠い昔の記憶が蘇る。
薄い日のさす舗道を歩くと、ボクの後ろを街路樹のケヤキの枯葉がカサコソと追いかけて来た。


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# by nonoyamasadao | 2015-12-23 10:37 | 雑文 | Comments(1)

クリスマスローズ

 人生を80年とすると、ボクのクリスマスはあと16回しかない。
人生設計をせず、残りの時間とか、スケジュールなどを無視し、後ろ髪ひかれ気味に、生きて来たワタクシには、ショックである。

 考えてみれば、高校受験の勉強は、中3の秋が深まってからだった。
就活など考えたこともなく、父が自宅にて急逝して、大学4年生の秋風が立つころに、就職課の掲示をはじめて、眺めた。
青田買いの時代だから、みな、3年の冬くらいには、決めていた。
先輩が心配して、自分の就職先を紹介してやるといっても、大きなお世話だと思った。
そんな先輩も、定年になって、文筆業か何かをしているようだ。
たいへん、失礼なことをしたと、すこしだけ反省している。すこしだけの意味は、当時、まったく勉強しなかったボクの学力では、とても、その会社には入れるわけがなかったからだ。

 しかし、基本、意識はあまり、変わらないものですね。
昨日の続きは、今日に続いて、今日の続きは明日に引き継がれる。
昨日の続きは今日の続き、今日の続きはまた明日。。。な~んて番組もあった。
そんなふうに過ごしてきた。
で、明日のかなり先のころになって、昨日に、再び戻る。
意識の流れ的には、12才くらいから37才くらいまでいって、元に戻る。
見てくれと体力だけが、老いていく。そ~んな感じだ。

 ♪もう会えないかもしれない 時は旅人。。。。という歌詞があった。
風が走り、背後に枯葉の足音を聞いて、冬に埋もれてく。。。。という内容だった。

 いつもながら、しょーもないことを考えながらスーパーに行って、造花のポインセチアを間違えて、買ってしまった。
金粉が降りかけてあるのかと思ったら、造花か。
手ごろな大きさだったに残念ということで、ネットで購入する。
これが、我が家のリビングが狭いのだろうが、バランスを欠いて、バカでかい。
う~ん、困ったもんだと思っていたら、玄関先の飾り物にしてた、先の金粉のポインセチアの下の葉が枯れだす。
ムムッ、こ、これは造花ではなく生花であったのか。
じゃあ、金粉は塗料スプレイか、なにかで細工したのだろう。

 クリスマスローズはいつも買うタイミングを外して、ローズマリーを2度も買った。
で、真っすぐ型が好きなのだが、なぜか、2つとも匍匐性だった。
で、またしても、ネットで、ピンクのクリスマスローズを買う。
男は売られた喧嘩は勝っても、何のてらいもなく、花など買ってはならない。。。と、心のどこかで、そう思っている。

 川上弘美さんに、大学時代、バスの窓越しに見かけた喫茶店があって、一度訪ねてみたいと思いつつ、行くことはなかった。。。。というエッセイがあるらしい。
まだ、読んでいない。
そうなんだよなあ。
行っちゃいけないんだよなぁ。
ははそはの ははもそのこも・・・あそぶあそびをふたたびはせず、と同じだ。
だったら、クリスマスローズは、買うべきではなかったのかもしれないなぁ。


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# by nonoyamasadao | 2015-12-15 11:36 | 短編小説・詞・詩 | Comments(1)

青島幸男さんのこと

 辻村深月さんの『ツナグ』を読んでいて、巻頭の『アイドルの心得』のモデルは、きっと飯島愛さんだなと思う。
もっと、面白くてよいはずなのに、すこし食い足りないのが残念だった。

 90年代からのこの20数年間は、ハナ肇とクレージーキャッツやザ・ピーナッツなど、『シャボン玉』のメンバーが1人、また1人と消えていく時期だった。
犬塚弘さんやザ・ピーナッツの妹さんがお元気なのは、希望がある。『シャボン玉ホリデー』は、ボクの青春のかなりの部分を占めている。

 青島幸男さんの初期と中期は意識して、追いかけていた。
『おとなの漫画』は、作、青島幸男のフリップを何度、見ただろう。
チミ、北海道に席が空いているけれど。。。と左遷を、におわすセリフは、今でも憶えている。
今なら、差別とかになるのでしょう。
『シャボン玉』では、谷啓さんが斜に構えて、『谷だ!』というと、青島さんがのけぞって『青島だぁ!』と繋いだ。
まあ、意味不明なのだが、ひたすら態度のでかさを競い合うギャグだ。
二人でムキになって、お互いのネクタイを切りあって、どんどん短くなっていくギャグも、何回か見た。

 高校のころに、生徒会の幹事長の下部組織の広報にいたときに、当時、鷺宮にお住いの青島さんに取材する機会があったけれど、1年生で行けなかった。
川崎徹さんに似た3年生が、インタビューに行ったのではなかったかしらん。
川崎徹さん似と書いたけれど、とても洒脱な文章を書く先輩で、ひょっとしたら、ご本人かもしれない。

 青島幸男作、脚本、演出、主演の『鐘』は、試写会で観た。
スポーツカーで海岸に行って、海に沈んでいる鐘を、丘の上の鐘楼にすえつけるシネマ・ベリテ風の前衛映画だった。
全編にモダンジャズが流れ、カミュの『シーシュポスの神話』の岩が鐘のようでもあり、『獄門島』の逆パターンのようでもあった。
まばゆいばかりの才能が溢れていた。

 自分で主題歌を歌った『泣いてたまるか』はそこそこ面白かったが、『意地悪ばあさん』は最初だけで、飽きてしまった。
東宝映画の自作自演の『二人でひとり』は、中山千夏さんと食卓でチャンバラをするシーンだけがちょっと面白かったけれど、凡作だった。
また、直木賞を受賞した『人間万事塞翁が丙午』も、正直、面白くなかった。

 だったら、映画『若い季節』のいかがわしい喫茶店のマスターや、赤塚不二夫さんのバカボンパパが『国会で青島幸男が決めたのだ』と、理不尽さを正当化するギャクが好きだった。
リアルタイムで見た佐藤総理に対して、『あなたは財界の男メカケだ』と噛みついたのは、短い質問時間なので、ちょっとだけだけど、よ~く言ったと思った。
ボクにとっては、彼は都知事でもなく、政治家でもなく、放送作家であり、作詞家であり、テレビタレントだった。
ただ、政治家になると、みなどこか、人相が悪くなるのに、彼の場合は、どこか飄々としていて、ぎらつかないのが好きだった。

 『誠に遺憾に存じます』という歌を、新聞の夕刊で、大宅壮一氏が絶賛している記事を読んで、ああ、もう違うんだって思った。
『スーダラ節』の「わかっちゃいるけどやめられない」のすばらしさは、なかなか、理解できないでいた。
今の経済学では、現在割引価値とか、限定合理性とかいうのかもしれない。
わかっちゃいるけどやめられないの普遍性を理解したのは、還暦を過ぎてからだった。

 数ある青島幸男さんの作詞のなかで一番好きなのは、『明日があるさ』かもしれない。
この詞には、青春の輝きがすべて凝縮されているみたいだ。ドキドキ感や、すこし懐かしく、適度に甘くて、せつない。

 政治活動よりも、TBSラジオのDJ『青島・フーコの天下のジョッキー』のおバカな会話が楽しかった。お兄さんのフィアンセを略奪したのが、今の奥さんなのもこの番組で知った。なるほど、たしかに、奥様は美しい人だった。
ラジオでは、先日亡くなった野坂昭如さんの才気煥発、当意即妙、悪く言えばああいえばこういう頭の回転について、口ではとてもかなわないと言っていた。
都会的で大人の感じだった前田武彦さんは、永六輔さんには詞には、とてもかなわないと彼が泣いた話を、以前、していた。

 そうかもしれない。
けれど、ボクにとって、青島幸男さんは永遠のアイドルだったんだなって、今なら言える。


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# by nonoyamasadao | 2015-12-12 16:00 | 雑文 | Comments(2)

なみなみの風呂

  ’湯船の中で、オナラをしたような顔’って、言う表現が、映画『沈丁花』の1シーンにあった。
お湯の中からブクブクと上がってくる泡のオナラを嗅いだような顔のお方は、お気の毒に、藤木悠さんだった。

 ボクは、以前、浴槽になみなみと、できればこぼれる位にたっぷりの風呂が、大好きだった。
もうもうと湯気で煙る浴槽に、ろくすっぽ、洗いもせずに、いきなりドボンとつかる。
あ、不衛生、ごめんなさい。
浴槽からは、ザザ~ッとお湯が溢れ出る。
この瞬間、ああ、生きていてよかった~~、これぞ人生の醍醐味と、心の底からそう思った。

 もちろん、我が母は、毎度毎度、激怒し、会社の若いOLさんからは、ああ、お湯がもったいな~いと呆れられた。
なみなみの湯のダイナミズムが大好きだった。

 最近になって、そんなダイナミックな生き方はできなくなり、ほどほどより、少し多めの湯につかる。
熱いお湯をじょじょに足していくので、だんだん、お湯の量は増大してくる。

 風呂というのは、艶っぽいことがなければ、基本は孤独な世界である。
寒くなって、イチョウは黄葉半ばで散りはじめ、大好きな伝統的なサザンカは平開しつつある。
もうすこしで、一枚、もう一枚と、ハラリ、ハラリと散るだろう。

 そ~んな寒い季節の、湯気もうもうの風呂は、最高のよろこびである。
湯船につかり、ああ、極楽と感じたころ、時間差で、ふしぎなさみしさが押し寄せる。

 ああ、たのしさとせつなさは、同じところから、生まれるのかもしれないな。。。って、最近、思うようになった。
そうだ。人を好きになると、たのしさとさみしさは、同時にやって来たっけなあ。。。と、遠い昔を懐かしむ。

 篭町通りでは、今年も、星型と雪の結晶型のイルミネーションが瞬く。
昔は、格子模様の、ちょっと洒落た電話ボックスが、街角にあったっけなあ。

 ポインセチアは、ネットショップで買ったら、やっぱ、大き過ぎだった。
今年こそ、街の花屋さんで、クリスマス・ローズを買おう。

 毎年、同じことを、書いている。進歩しないですね。


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# by nonoyamasadao | 2015-12-11 14:41 | 雑文 | Comments(1)

それなりに・・・

 三角錐の黄葉したイチョウ並木から、はらりとはらりと落ち葉が舞う。
目の前を流れる木の葉を眺め、こちらは憂いも焦燥ともまったく無縁な、お気楽なまったり感に浸る。
お気楽と書いたけれど、お気楽なキブンには、幾ばくかの感傷が混じる。
枯葉を踏むと、カサッ、カサッと足音がする。あ、イチョウはスリッピ―だから、かかわらないほうがよい。
これが、よいのだ。
日本の秋という感じだ。

 日本の夏といえば、キンチョウの夏です。
あ、違った。キンチョウの蚊取り線香の夏でした。
渦巻き蚊取り線香に、マッチで火を灯す。
ゆっくり、ユラユラと除虫菊の煙が、蚊遣り豚の陶器から立ちのぼる。
この退屈な感じがたまらん。ああ、落ち着く。
除虫菊の燻ぶった、匂いがむせるように漂う。
まさに、♪smoke gets in your eyesですなあ。

 してみると、日本の冬はCM的には、お正月を写そう。。。ですかねえ。
美しい人はより美しく、そうでない人はそれなりに・・・。

それなりに…の含意は、深い。
不満がけっしてないわけじゃないけれど、そこそこの満足は得られるってことかしらん。
それなりに・・・は、ひらたく言えば、まあまあ。。。に近い。

 ああ、今年もまた、ケヤキの街路樹の幹に青い電飾、大きく伸びた枝には黄色い電飾が瞬く季節が来たのだなあ。


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# by nonoyamasadao | 2015-11-29 11:10 | 短編小説・詞・詩 | Comments(0)

金曜日には花を買って

 ふりかえって、人生は森のなかの一日のようだったと言えたら、わたしはうれしい。。。。という人生の顛末を綴った長田弘さんの詩がある。
いつか、逝く日を念頭に置いて、人生を振り返った詩だ。
非モテの野蛮人という何とも無様で、愚行に満ちた時期だったけれど、ボクにとっての中学時代は、森の中の一日のようだった。
けれど、結構、ヒサーンな青春だったのに、なぜだろう。不思議だ。

 中学2年まで、木造バラックの校舎で、校庭の裏庭には給食の匂いや、ゴミ焼却場の焼け焦げの臭い匂いや、放課後には夕焼けの匂いが混じった空気が漂っていた。

 男たるもの、厨房に入るな、女子などと軽々しく口などきくなが、父権的で、スパルタ教育の父の教えだった。
父親にはことごとく反抗してきたけれど、上については、忠実に守って来た。

 まあ、ブサイクで、ポケットに片手を突っ込んで、うつむいて歩き、上目づかいで、廊下ですれ違う女子など見上げれば、そりゃ、コワーイといわれるだろう。
もっとも、イケメンとまでいかなくても、そこそこなら、ニヒルとかいわれていたのかもしれない。
見た目、ルックスはパッとしないし、遊んでばかりで、勉強はしないし、よいところなどない。

 それでも、家に帰れば、日々楽しく、森永スパーク・ショー、シャボン玉ホリデー、ザ・ヒットパレード、夢であいましょう、真夜中のリクエストコーナー、東京ミッドナイトなどで、ポップスなどの情報を仕入れた。
今でも好きなポップスは、この時代だ。翌日の学校の授業の合間には、そんな話ばかりしていた。
洋楽は、初期のビートルズで、こと切れている。あとは、情けない話だが、J-POPか、歌謡曲である。

 じゃあ、色気がなかったのかと言えば、いえいえ、頭のなかは肉欲の野獣であり、色魔状態である。
まあ、思春期の男子など、みんな、そんなものだと思う。違ってるかな。
仲間内で、頭がよくて、要領のよいヤツは、かわいい女子を見出しては、たとえば、スレンダーで足の長い子を5/6とか、面白いネーミングをしていた。
そのくらい、足がスラーっと長いという意味だったのだと思う。

 しかし、思春期の女子はかなり攻撃的で、そして残酷だったと思うのだ。
女子とは一切、口を利かない(口がきけないが正しいのだが)ので、まったく、眼中になくても、こちらの肉体的欠陥をついてくる。
ボクは、赤塚不二夫さんのマンガのイヤミほどではないが、前歯がニョキリ出ている。
廊下の傍の机で、放課後などボーッとしてると、スイカを好きでしょう、食べるときに便利ね。。。とか、大体、2人連れでやってきて、冷やかして笑う。
かとおもえば、親切だった女子が転校して、引っ越し先から仲良しの女子宛に書いてきた手紙を渡して、ラブレターが来たわよ~といって、これまた、意地の悪い笑いの種にする。

 ウ~ム、今だったらイジメだぜ。考えてみりゃ、コワーイはずのブサイクな野蛮人も、舐められたものである。
そっか。中学校時代は、音楽や遊びでは本当にブリリアントな日々だったが、女性恐怖になったのも、この時期である。
これが引きずる、引きずる、今も、その残滓は色濃く残る。
 
 思えば、男女七歳にして席を同じうせず、女子とは黙して語らず。。。の亡父の教育は、明らかな誤りだった。
このアレルギーは、ひょっとしたら、未だ、治っていない。墓石の下の亡父は、スマヌと言っているに違いない。

 金曜日には花を買って、春の日、あなたに会いにゆく。。。は、一生、ありえない。


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# by nonoyamasadao | 2015-11-22 15:58 | 雑文 | Comments(4)

カノ―プスは見えますか?

 穴沢ジョージさんから、そちらでは、南東の方角に赤く輝くカノープスが見えますかと聞かれた。
実は、カノープスどころか、カシオペアも、北極星すら、識別できない。
子供のころは、ぼくは勉強はできないからだと思ってた。
冬の夜空の凍てついた星をじぃーっと見つめていても、金平糖のような星がランダムに散らばっているだけだ。
どうやら、星をつながりしてとらえる、視点を統合する能力が、まったく欠けているみたいだ。

 子供のころは、夜、暗くなるまで、近所の畑で三角ベースの野球などしていると、一番星を何度も見つけた。
きまって、今思うと、まだ若かったお母さんたちが、晩ごはんよ~って迎えに来て、一人減り、二人減り、ボクのうちだけ遠いので、一人で帰った。

 還暦近くになって、怪我をして入院してから、酒浸り生活を変えたら、やることがな~んもない。
仕方なく10時ころに寝ると、きまって、夜中の3時には目が冴え冴えととして、闇夜のマンションのベランダで深呼吸した。
お隣は国立大学の薬学部の鬱蒼した雑木林で、そのさきに建物があって、ある部屋だけが明かりが灯っていた。まれに、人影がうつり、揺れた。
ああ、実験でもしているのかなあ。みんな、よ~く勉強するのだなぁって思った。
そのときは、夜空も、星も、絵のように眺めた。歌詞ではないけれど、♪星が森へ帰るように、雑木の森の上空にたくさん散らばっていた。

 キラキラヒカルという暗号のような詩がある。
星と言えば、サイボーグ009のラストシーンの物干し台から姉弟が、”あ、流れ星”のシーンが忘れられない。
レイ・ブラッドベリの”刺青の男”のロケットが破裂して、田舎の母子が流れ星だと思うシーンのパクリだが、どちらも残酷なポエムがあった。

 長田弘さんの訳した青い絵本で、白い星はイチゴ、黄色い星はカボチャというフレーズがあった。
今も寝る前に、星を探すのが習慣になっている。
ごくたまにだけれど、小さくまたたく電飾のような星を見つけると、世界でどれくらいの人が同じ星を見ているのかしらん。。。とらしくないことを考える。

 ↓ボクらの世代なら、ザ・ピ-ナッツの”スターダスト”とか、加山雄三さんの”夜空の星”なんでしょうな。


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# by nonoyamasadao | 2015-11-21 13:05 | 雑文 | Comments(3)

お昼の定食屋さん

 今頃になって、『男女7人夏物語』を楽しんで、見ている。
脚本家の鎌田敏夫さんとのおつきあい(といってもドラマを通じてだが)は、結構古い。
東宝映画時代の、井手俊郎先生門下の時の、あまり出来の良くない作品、石原慎太郎原作の青春熱血ドラマ、情緒過剰の『俺たちの旅』も、みな見ている。
そして、アランアルダの『四季』の影響が色濃い『金妻』あたりから、彼の才能が開花して、はまり出す。
つまり、数学の順列と組み合わせのように、男女が織りなすドラマが『金妻』を経由して、開花したのが、『男女7人夏物語』であった。
あらためて、見て、フム、面白かった。

 時間的には、イシダイやイシガレイの刺身がうまかった千歳船橋時代から、麹町に本社が移って3年目くらいだ。
夕暮れになると、夜の空気に誘われて、行きつけの店に、毎日、繰り出していた。
だから、テレビなど見ることはなかった。

 ドラマは、タイトルバックで、清洲橋が正面に映し出され、ズームアップしていく。次いで、首都高速6号向島線がうつった。
今なら、東京スカイツリーが背後に、聳えているはずだ。

 下を隅田川が流れる、清洲橋を大竹しのぶさんが欄干でリズムをとりながら、スキップするように走ってくる。
初々しくて、若さが弾けている。

 好きなシーンは、夜の定食屋さんで、冷ややっことブリの照り焼き定食を頼み、ビールを飲むところである。
いつものように、明石家さんまさんと、口げんかになり、じゃれあっている場面で、小泉今日子さんの『夜明けのMEW』がかすかに被さる。
♪愛をごめんね~  君を~すべて 知っている~と 思っていた~
のところが、低く流れている。

 このころはいつも、おいしい刺身や、酒の肴を求めて、行きつけの店に行った。
毎日だから、さすがに飽きると、美味しい匂いがする銀座や新橋の裏通りをさまよった。
酒量は多すぎたけれど、理想の老後のような毎日だった。

 ああ、日が暮れるなぁ。。。と思うと、今日は、どこへ行こうと胸がときめく。
そっか、おいしい定食やさんで、ほうれん草のおひたしや、きんぴらに、肉豆腐に、味噌汁にご飯など食したのは、虎ノ門勤務のお昼くらいまでだった。
むつ照り、たらこのチョイ焼きとか、さんまの焼き魚定食とか、ホタテのフライ定食とか食べていた。
本格的な酒飲みになってからは、二日酔いの翌日のお昼は、コンビニのおにぎりか、たまに、ホカホカ弁当屋さんの、肉ちょっぴりの野菜カレーなど食し、お昼休みの時間はへたくそな将棋など指してた。
30代の半ばは、卵とじソバとか、毎日食した。

 ああ、今だったら、秋の陽ざしが陰りだした時間、おいしいお酒を飲もうよ~と誰かを誘って、たんたんと、静かなお酒を飲みたいものである。
それが、本当の理想の老後なのになあ。

 しんみりと、過ぎて行った時間とか、今週に起こったうれしかったことなど考え、静かに一杯目のビールを飲み、ゆっくり一杯目のお猪口の酒などすすりたいものである。


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# by nonoyamasadao | 2015-11-05 17:15 | 雑文 | Comments(0)

青春のバカヤロー

 そこそこ寒くなって、好みの季節到来なのだが、昼の陽ざしはまだまだ、暑い。
寒暖差があるので、風邪をひいた。
熱はないし、たいしたことはないのだけれど、これが治りそうで、なかなかよくならない。
で、しかたなく、数日、家にいて、仕事ばかりする。
外の陽ざしは明かるんでも、部屋に閉じこもって仕事ばかりしていると、なんともうっとしい気分だ。
曇天の日の、じっとりしたヤなキブンになるのである。

 永遠の青年というのは、外見も内面も、少年のような純粋さを持った人をいうのだと思う。
この場合、外見というのがキモである。
ボクの場合は、内面だけ、純朴さは、十代、二十代、三十代、そして今も、ほとんど変わっていないと思う。な~んも考えない純朴さは変わらない。
というと、人は何も考えない少年なんか、いるものか。
まして、人生の締めくくりが近くなっても、な~んも考えないのは、単なるアフォなだけさ、と人はいうだろう。
そうかもしれない。
部屋に入りびたりだと、精神衛生に悪い。
見晴らしのよい海辺に行きたいなぁ。。。と思う。でも、海は遠い。

 昔は、多摩川の売店で買った缶ビールなどもって、川を見ながら、立ち飲みして、釣り人観察などをした。
自転車を飛ばして、ICUのゴルフ場跡地の芝生の公園に寝そべって、ビールを飲んだら、すぐそばのカップルの聴いてたユーミンの古い曲が鳴り出して、座りなおしたこともあった。
♪人波~に流されて~ 変わって~いくわたしを~
フム、人波に流されるか。何とも、型通りで、ボキャ貧であるなぁ。。などと思ったかどうかは、忘れた。

 学園祭が始まったが、ボクが大学のころは、群れるのは大嫌いで、いつものように喫茶店でだべって、夜だけ、新宿の映画館の最上階のやすいパブでだべった。
ずらっと並んだ馬蹄形のカウンターの隅がOBが現役に遠慮する席で、さらにその隅で、群れるのは苦手だなぁ。。。と思いながら、さみしく、ウィスキーの水割りを飲む。
きまって、新人の女の子が来て、あれこれとからまれた。
あれは、現役の連中が嫌がらせに、あの先輩をからかって来い、面白いぞ~とか、いったに違いない。

 夜、風邪、ぶりかえすかなぁ、ぶり返すとヤだなぁ。。。などと思いながら風呂に入っていて、上のことを、今になって、ハタと気づく。
なんてぇこった。風呂につかりながら、青春のバカヤローと心の中で、つぶやく。

 ああ、むかつく。


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# by nonoyamasadao | 2015-11-03 11:19 | 雑文 | Comments(0)

ツーコンの極み

  竹内まりやさんの音楽を聴きながら、記事を書く。
ああ、昔はいつもそのまんま何も思いつかないままに、書いていた。
その結果、支離滅裂になって、いつだって、何度も書き直した。

 1年間を通して、一番好きな季節が近づいているのに、あまり感慨がない。
サザンカの花やキンモクセイにも、どこか鈍感な気がする。
ウ~ム、イカンなあ。イカンですよ。

 すこし厚着をしなくっちゃ、でも昼は暑いのよ~という、あやふやに揺れる季節の中で、ちょっと儚げなサザンカや風が運ぶキンモクセイの香りに包まれた、今年だけのかけがえのない風景を味わっていない。
色づくモミジも、この先、いったい何度みるだろうという、せつない想いが、今年は希薄な気がする。

 季節への愛着を失ったら、ボクの大きなこだわりがなくなってしまう。
昔、傘を忘れてしまうま。。。といっていたシマウマ語をあやつっていた女性たちも、今や、50代になると、どこかの記事で読んだ。
今日もまた、昔、お世話になった会社の同窓会のお誘いを頂いた。
そこでは、ボクは若手の部類になる。

 と、まあ、まことに、いきあたりばったりに綴ってきて、ああ、気楽だなと思う。
考えてみれば、いきあたりばったりに暮らし、いきあたりばったりに選択してきた人生だった。
子供のころは、両親から、何も考えない、およそ計画性のない子だと叱られたもんだ。

 あ、今、『ボナペティ!』に変わった。

 でもね、軽率で軽薄な生き方そのものだろうけれど、それだって、別にいいじゃん。。。という気持ちが急に、もたげてきた。

 ただね、ここに一つだけの悔いが残る。
いきあたりばったりのわりに、異性と出会って、恋愛して、別れてという、基本的な人生の醍醐味や切なさだけは、縁がなかったなあ。

 いつもの日常的な空気の中に、一瞬の風が吹いても、それって、全部、見逃してきた気もしないではない。

 だとすれば、ツーコンの極みじゃ。

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# by nonoyamasadao | 2015-10-22 12:10 | 短編小説・詞・詩 | Comments(0)

秋の断章

  今月の上旬、ことし2度目のBBQに出かけた。
若い人たちに混ざって、車は山道をゆるやかに、運転する若者のせいか、ばかにのどかーに登る。
森の中にバンガローというべきか、コテージがポツリ、ポツリと散在している。
弱くなったはずの陽光は今日は、賑やかで、穏やかに、でも燦々と降り注ぐ。
ウム、森林浴であるなぁ。
落葉樹林の葉叢のおおかたは、赤や黄や、茶色に染まっている。
まだまだ、陽は暖かくて、木々の葉の組み合わせのつなぎめをぬって、木漏れ日がこぼれ、地面に斑模様を描いた。
そういえば、去年の今頃も、同じところで、同じことをしていた。
ときおり、梢をプルンと揺らして、気持ちよい風が吹き抜けていく。

 若い人たちは、着火した炭火で、BBQの料理をしている。
時は1年過ぎ、去年の若者たちとはそれぞれに手を振って別れ、今頃はあちこちで活躍しているだろう。
ピーターパンとウェンディの物語のように、皆は姿を消し、私だけ、立ち止まったままだ。
ボクは、渋茶でも啜っていればよいのだろうけれど、不謹慎にもビールを飲む。

 今、目の前に展開されている青春を横目でチラ見しつつ、真っ昼間から、遠い昔のセイシュンを懐かしく思い、ときおり、舞い散る枯れ葉など眺める。
二本目のビールを飲む。
年若い、女の子たちが運んでくれる焼き野菜など食し、げに女子力というのは、エライものだなあ。。。と、ありがたいものだなあとシミジミ思う。
女の人は、いつの時代でもエラいんだ。
若くっても、年いってても、やることはやる。

 てなことを考えつつ、我が方はといえば、昔も今も、アウトドアだって、いつだって居酒屋状態なのは、いかがなものか?
しばし猛省する。

 でもね、エクスキューズはいらないから、まっ、いっか。
じゃあ、また飲んじゃお。

 マシュマロの串焼きを去年に引き続き、2度目を食し、不思議な味覚だが、なんだかおいしい。。。と思いながら、またまた、ビールを飲む。
そのうち、キノコをとってみようかしら。。。とか、傍らの女子が呟く。
あぶない、あぶない、おいっ、やめろって。
『センセイの鞄』の樹木希林さんの笑い茸を食べちゃったあとの怪演が、マザマザと脳裏をかすめる。
笑い死にってあるのだよねえ。

 ああ、きょうもそろそろ、暮れるなぁと思いつつ、ビールは飽いて、今度は日本酒をいただく。
でもまだまだ、秋の午後の陽光は明るいなぁ。

 こーゆーのを、至福の時というのかもしれない。
森にはないはずのキンモクセイの甘ーい香りが、どこからか流れてきたが、姿かたちはどこにも見えない。
きっと、あなたはバラの香りが苦しくて、涙をそっと流すでしょう。。。。ブルコメの歌詞が頭に浮かぶ。

 ああ、花の香りが苦しいっていうのはこういうことか。
生まれて、初めて、今になって実感した。いつだって、遅すぎだよ。


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# by nonoyamasadao | 2015-10-21 18:10 | 雑文 | Comments(0)

子供のころの夢

 子供のころから、温泉旅館の美人女将のおバカな旦那さんになるのが、夢でした。
実際はそうではないのでしょうが、リーマンみたいにあくせくしないで、楽ちんそうに見えました。

 たぶん、モスラやゴジラの怪獣映画を見に行った時、併映だった森繁久彌さんたちの駅前シリーズなどの影響もあったんでしょう。
駅前旅館とかね。

 旅館のお昼は、子供心には、ヒマそうに見えた。
畳に寝そべって、堅焼きおせんべいでも齧って、詰将棋など解いたりしながら、まったりと過ごす。
今なら、やっぱ、パリっと堅焼きの伝統の草加せんべいがよいですね。
あ、変わったところで、四万十の青のり・川えびせんべいというのも、1度は食してみたい。

 夜のひと時だけ、お客様の、”お床を延べさせて頂きます”という布団敷きの唯一の1日のおつとめをしたら、旅館や駅前商店街の仲間たちと、ワイワイガヤガヤとお酒を飲み、一日がゆっくりと暮れていく。
ゆっくりとまったりしてて、それなりに自堕落で、でも一定の規則があって、いいなあ。。。。って思ってた。
人生の幸せとは、こういうことなのかしらん。。。って思った。

 ああ、この頃から退嬰的で、享楽的な人間だったのですね。

 最近、24時間営業の居酒屋兼ソバ屋を見つけた。
亡くなった、大好きだった杉浦日向子さんは、”暮らすということは、時間をつなぐことで、酔ってうやむやに終わる1日からは、暮らしの実感は生まれてこない”って書いていたことを思い出す。

 そっか。
還暦を過ぎてから、1飲2休の日々の暮らしだが、たしかに、お酒ははやめに飲んで、読書かDVDを見るなどしてから、しっかりと今日が終わったことを実感してから、眠りたいと考えている。

 そろそろ、夜の月を眺め、夜風がキンモクセイの香りをどこからか運んでくれる季節である。
リーマン時代は、午前様の守谷の分譲地の暗い夜道を酔ってトボトボ帰って、月光に揺れるススキを見るのが好きだった。

 ああ、リーマンというのも、案外、素敵な仕事だったな。。。と、今なら言える。

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# by nonoyamasadao | 2015-10-05 10:11 | 雑文 | Comments(0)

ブリッコの考察

  声優補正という言葉が、あるらしい。
まあ、女性なら、昔、声美人と言っていたようなものだろう。
デパートや野球場には、ウグイス嬢なる姿かたちの見えない声の美人がいて、場内アナウンスをしていた。

 声美人かどうかはわからないけれど、アストラット・ジルベルトやクローディーヌ・ロンジェのウィスパーボイスが好きだった。
甘~くて、繊細で、切れ切れで、ささやくような声質で、世のバカ男どもは、たいてい、これにやられた。

 甘い声では、伊東ゆかりさんの声が好きだった。
アルトで、竹内まりやさんがすこし、似ている。竹内さんの方が、すこし硬質な音色のようだ。

 これを書くと、かなりの女性から反感を買いそうだが、いいや、書いてしまえ。
菊池桃子さんの、息がどこからか漏れたような声が好きだった。
丁寧語で、ゆっくりと鼻詰り風にしゃべる。
いつも目から鼻先にかけてニコニコと笑っているが、口は大きく開けず、テンションも上げずに、感情の起伏はあらわさない。
そして、ここがポイントになるが、クローディーヌ・ロンジェ同様に、舌足らずに、さ行は、しごくあいまい且つ滑舌が悪く、センテンスの語尾だけを強調する。
。。。。で「す」というふうだ。
そこが、かわいい。

 そういえば、部下だったかわいいOLが、お姉さんに子供が生まれ、旦那さんが桃子と名付けたとか聞いたのも、この頃だ。
彼女は、安易だと思いませんか?と言って、笑った。

 まあ、菊池桃子さんの曲は、林哲司さんが独占していた。
けれど、菊池桃子的ワールドを楽譜で表現したのは、尾崎亜美さんだったと思う。
乙女チック路線でありつつ、物語性を持たせた詞の展開で、少女マンガ的世界の絵がパッと、眼前にひろがる。

 あまり売れなかったけれど、以前に書いた『曇り、のち晴れ』など、傑作だと思う。
考えてみれば、'70年代から'80年代にかけて、デパートの屋上での”歌とサイン会’が華やかだった全盛時代は、よたよたしながらも、どうにかリーマン人生を歩いていた。
 
 まあ、ブリッコ路線と言えばそれまでで、きっと今と同じで、同性からは、ウザイとか、イラッとするとか、痛いとか言われたのかもしれない。
ボクだって、天然系の菊池桃子さんは大好きだったけれど、演技派の松田聖子さんには、でぇっ嫌いだぁぁぁぁ~~~を貫いた。
今だから言える。
じつは、隠れ・・・だったと。

 この隠れ・・・というアイドルは、結構、多い。
まだ、恥ずかしくて書けない人もいる。

 そういう意味では、最近のアイドルは一部の人を除いて、ブリッコ的情感に訴えるものが乏しい。
感覚の衰えもあるだろうが、時代がブリッコを求めていないからなのかもしれない。

 肉食系女子時代の青春っていうのは、殺伐として、ヤな時代であるなぁ。


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# by nonoyamasadao | 2015-09-11 16:55 | 雑文 | Comments(2)

雨の石畳

 朝、芝の増上寺を見ながら、小雨の道を歩く。
子供のころから、今にいたるまで、闇のお寺は、なべて不気味だ。
よい年をして、恥ずかしいのだが、こ、怖い。
夜中に、タクシーから見るだけでも、築地本願寺は、際立って怖い。

 増上寺は、なぜだろう。
早朝のせいもあるが、全然、怖さがない。なんか開放的な感じがする。夜でも、大丈夫かも知れない。

 慶應大学の西門に行くつもりが、三田駅から市役所に向かうふれあい大通りとかに、出てしまった。
街路樹のサルスベリが、そろそろ終わりですよ。。。。というようにワインレッドの花をつける。
西門を探しながら、サルスベリの花に話しかけるように、ゆるゆると歩く。
角を曲がって、ああ、今年はサルスベリを見なかったけれど、街路樹のサルスベリというのは、また格別だなと思う、
そっか。
今年の夏も終わってしまうのだなあ。
なんとなく樹木の葉が、秋の装いを告げているような気がする。

 な~んて、のどかに歩みをゆるめていると、バケツをひっくり返したような雨が降りだす。
叩きつけるようで、だいぶ、濡れてしまった。

 ひっそりとした道を行くと、ああ、ありました。
ここが、慶應大学の西門か。
狭い、石畳の坂を上る。
雨に濡れた舗石などながめ、まっすぐに坂を上ると、学問の庭が広がった。

 こういう道を毎日、歩いて、なにがしかを考えていれば、もうすこし、ましな人間になれたかもしれない。
でもね、しょうしょ間抜けで、マンガのような毎日だけど、まだまだだよね。。。と思えるのも結構、楽しいのですよ。

 今年の秋は、少し長めだとよいのになあ。


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# by nonoyamasadao | 2015-09-09 18:17 | 雑文 | Comments(2)

9月になれば・・・

 9月になれば、世間の人はみな忙しく、学生さんもそれなりに忙しくなる。
いつもヒマしているワタクシも、すこし忙しくなった。

 地方都市なのだから、帰るころは、そんなに暑くもないし、本の歩き読みでもしたいなと思う。
けれど、歩道を自転車が走ってくる。
ああ、そういえば、遠い昔は、授業中でも、行き帰りの電車でも、バスを降りた家までの帰途でも、本を読んでいたことを思い出す。
フム、娯楽小説が面白くて仕方なかったころだ。
ミステリやSFだけでなく、新聞小説、恋愛小説、中間小説、時代小説、風俗小説、都会小説、みな読んだ。

 なんで、本ばかり読んでいたのか。
孤独な少年だったわけでもない。
川上弘美さんはさみしいから、本を読むのだ。。。みたいなことを書いていたのを、読んだ気がする。

 さみしいと言えば、今だって、さみしい。
たしかに、さみしかったから、本のなかのいろんな人に出会って、退屈を忘れた。

 明日から、東京に行って、しばらく一人ぼっちになる。
若いころは、九段下から神保町まで古本屋巡りをして、新宿の紀伊国屋に行き、渋谷の大盛堂書店も覗いたな~んてことがあった。
今、そんなことをしたら、ヘトヘトだ。
そ~なんだ。
若い人たちと仕事をすると、若いころは、こんなの楽ちんだったのに、と思うことがしばしばある。

 ウ~ム、年令には勝てぬ。
でも、そのぶん、夜空を眺めたり、朝の空気を吸ったり、お茶をのんびり啜ったりを自覚して、しているような気がする。
女性ならカツカツと歩くのだろうが、スタスタと素早く歩くことが、ほとんど無くなったぶん、季節の移ろいや、そういえば、今年のサルスベリは花の終わりがはやかったな。。。とか思うようになった。
これは、若いころには経験しないさみしさだけれど、なんか少しづつ秋の気配を感じることも、そう捨てたもんじゃない。
すこしづつ夏が去って行き、すこしづつ秋が近づいてくる。

 こういうあいまいな季節のなかで、ゆるゆると過ごし、まったりとしたキブンでいたいときに、読む本は、はて、なんだろう。


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# by nonoyamasadao | 2015-09-06 16:14 | 雑文 | Comments(8)

紅の渚

 夏のお酒、『悦凱陣』を飲みながら、甘鯛の焼き物などをつつき、今日一日に思いを馳せる。
でも、夏のお酒と言っても、実のところ、よ~くワカラン。まだまだ、修行が足りない。
いつもの、佐賀のお酒『東長』の方が、ボクにはおいしい。
ようは、猫に小判なのだった。

 猛暑日だというのに、野暮用で、郵便局へ行き、仕事部屋へ向かう。
土曜日の郵便局は、こちらでは東郵便局と、中央郵便局しか開いていない。

 郵便局の用事が済んで、ああ、くたびれたぁ。。。と思いながら、こだわりの背広に、こだわりのネクタイで仕事場へと歩く。
こだわりというのは、人がネクタイをするときはせずに、世間がクールビズの時には、ネクタイをする。
アウトローのワタクシらしいのが、こだわりである。
でも、あじぃー。とけるかとおもった。

 学園大通りのケヤキ並木の木陰に、何人かの女性が、くっつくようにして信号待ちをしている。緑陰なのでしょう。
こういうときに、あの角を曲がったら、海の匂いがした。。。みたいな地にすみたいなとつくづく痛感する。

 路地にはお寿司屋さんや古本屋さんがあって、でも、ボクはカレーやうどんも出揃った大衆食堂で、鰺の叩きで、ビールを飲む。
海辺ならではの醍醐味だ。
目の前には、駿河湾のような青い海が広がっていて、漁港には、船が桟橋につながれている。

 常連のボクに、食堂のオヤジが、うまいエボダイの開きがあるから、これ食ってよ。。。とかいって、タダで焼き立てを出してくれる。
バカうまっ!。
じゃあ、うまいものも食ったし、仕事でもすっか。。。。ていうのが理想だ。
猛暑のせいだろうか、妄想は際限なく、広がっていくのだ。

  というような、夏の日々なら、さぞ楽しかろう。
こういう喜びは、若いころにさんざんバカにしていた、ささやかなシアワセってヤツ?。。。なのかもしれない。
俺も随分、堕落してしまった。

 ところで、ダメついでに、『夜は短し歩けよ乙女 』っていうのは、面白いのだろうか。
年甲斐もなく、実は、気になっている。
な~んとなく、好きそうな予感がする

 遠くなった昔、函館の夏、湯の川温泉からイカ釣り船の漁火を見た。
闇夜に、たいまつの炎が揺れる。
日の出の朝には、紅黄色の海の朝焼けを見た。妄想ではなく、実話だ。
 
 そして一日が暮れていくなあと、思いながら、今、最後のビールを飲んでる。
定年退職したら、海辺で暮らしたい。


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# by nonoyamasadao | 2015-08-22 20:31 | 雑文 | Comments(0)

遠い日の花火

  今年も、夏真っ盛りになった。
昼下がり、強烈な陽光を浴びながら、ペットボトルをラッパ飲みしながら帰る。
うだるような空気がゆ~らゆら、こちらの意識も、少しだけ、ゆ~らゆらしながら、スーパーの横の細い横道を歩く。
スーパーを過ぎると、小学校の向かいの原っぱに、青々としたススキが幾重にも重なって伸びている。
草の茂みのムッとした、青くさい草いきれがプ~ンと鼻をつく。
う~ん、これは遠い昔、子供のころに嗅いだ夏草の匂いだ。
向かいの小学校側を、浴衣の小学生か、中学1年くらいの女の子が歩く。
ん、なぜに浴衣?。
江津湖で花火大会でもあるのかなぁ。

 そうだった。
中学のころは、石坂文学の影響か、山と川とお城のある町に憧れてた。
さらに、この地では、いたるところに温泉まである。
そっか、夢は叶ったのだな。。。今になって、そう思う。

 花火大会で、あらためて思う。
ボクには、恋は遠い日の花火ではない。。。というような、ロマンティックな思い出などなかったな。
♪チッチッ…チッチッ… チッチッ…祭りの太鼓がテンテケテンと泣いちっち。。。という甘酸っぱい失恋の思い出すらねーよ。無念じゃ。

 ボクの子供のころの花火は、みな、おもちゃ花火だった。
橋の上に立って、ドーンという音がする、夜空に咲く花火をまじかに見たのは、ぐっと下って、30代の半ばである。
手賀沼の花火は、自宅そばでやっていた。

 おもちゃ花火でも、ねずみ花火とロケット花火は、別格だった。
ねずみ花火は、円形の軌跡を描いて、ネズミのようにしゅしゅっと音を立てて走り回り、最後に、パンとはじけた。
ロケット花火は牛乳瓶に立てる打ち上げ花火だった。

 中一の時に、クラス委員の女の子が、ボク向かって、スイカを食べるとき、楽でいいでしょ。。。と意地悪を言った。
ボクの前歯は、二本がにょっきりと大きくて、すこし出っ歯だった。
ムカついたので、習字の時間(書道?)に、顔にめちゃくちゃ墨を塗ってやった。
放課後職員室でしかられ、校門を出ると、待ってたクラス委員がすまなそうにあやまった。
なんだか、とりかえしのつかないことをしたような気がした。

 そのクラス委員の子と夏の夕暮れに、おもちゃ花火をしたことがる。
クラス委員が駄菓子屋さんで買った、しけった花火を持ってきたからだ。
その頃の舗道には、各家々に木のゴミ箱があって、ゴミくさいところで、しゃがんで花火をした。
ねずみ花火などなく、もっと、地味で、しょぼい花火だ。
それでも、青や黄色い炎が燃えて、影法師が長く伸びた。

 クラス委員は浴衣の膝をそろえて、ボクの花火をじぃーーっと見てた。
な、なんなんだろう。突然、むずがゆいような尿意をもよおした。
けれど、我慢をしたのを覚えている。

 実は、高校時代にもマネージャーの子と花火をしたことがあるが、この時は、影を踏んだ踏まないで、喧嘩になった。

 してみると、中一の夏のしけった花火が、ボクにとって、最初で最後の、遠い日の花火だったのかもしれない。


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# by nonoyamasadao | 2015-08-01 14:36 | 雑文 | Comments(6)

動く歩道

 高校からエスカレーター式に大学へ進んだ。
エスカレーター式というのは、今や、死語かもしれない。
あまり、聞いたことがない。
若い人はつかわないでしょう。

 幼、小、中、高、大の自動進学の場合は、エレベーター式といった方がよいかなあ。
幼稚舎に入って、階を示す5階のボタンを押せば、エレベーターは勝手に、するすると大学に運んでくれる。
ボタンを押し間違えて、8階とか押した人は、高校とか、大学で留年を繰り返すと考えると、その方がなんとなく彩りがある気がする。

 顧みれば(なんて大仰なんだ!!)、我が高校から大学へ進むプロセスは、エレベーターほど速くないけれど、エスカレーター式そのものだった。
だから、大学で、ミステリや映画などに、とち狂ってしまった。
けれど、その道草はとても楽しかった。あっちプラプラ、こっちでウロウロしてた。
最短距離は時間が速い分、味気ない。
願わくば、女性関係の寄り道とかあったなら、尚よかった。けどなかったな。
人生はかなり、とっ散らかっていたかもしれないけれど、素敵だったろうなあ。遠い目。

 な~んて、思うのは、最近、空港で動く歩道に乗った時に、えも言われぬ違和感を感じるからだ。
おいおい、かっての人の進路をきめるなよ。
あまり前向きに人生を生きたくないな。。。って、還暦を過ぎるか、過ぎないころから、そう強く自覚した。
本当は、子供のころからかもしれない。
手塚治虫に、時間を止めるマンガがあったようで、そのドラマ化の『ふしぎな少年』は小学生時代のお楽しみだった。
♪時間よ止まれ・・・は、矢沢の永ちゃんが、最初ではないのですよ。

 勝手に前進するのは、どうもいけません。
したがって、後戻りしたくなる。
まあ、このブログは、後退し続けているというより、たぶん10代から30代で、時間が止まっている。

 年令相応に生きるが自然で、そのように体力は衰えては来てるのだけれど、見るのは『ごめんね青春!』のDVDだもんな。時間の無駄遣い、道草、寄り道、これぞ、人生の醍醐味のような気がする。
違うかな。
まっ、死ぬまで、ジタバタ暴れてやる。。。。な~んてね。
でもそれも、また、まっ、いっか。


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# by nonoyamasadao | 2015-07-16 11:02 | 雑文 | Comments(5)

やっぱり、ぼっちはさみしい

 最近、ぼっちだから、行くのがヤダとか、若い人がよく口にするのを聞く。
ぼっちは、たぶん、一人ぼっちのことだろう。

 昔々、『孤高の人』というアルピニストの小説があったが、ぼっちというのは嫌いではなかった。
孤高というような高邁で、ストイックな精神ではなく、な~んとなく、群れたくないなあ。。。と若い時はよくそう思った。

 別に友達がいないのではなく、男は、群れたり、つるんだりするのってのは、あまりカッコよくないなって思っていた。
だから、SF小説マニアが渋谷の喫茶店あたりで、たむろしているのを見て、いっときSF嫌いにもなった。
まあ、一匹狼気質を気取ってたわけだ。

 死ぬときは一人みたいな、やせ我慢の美学は、確かな形であった。
今に至るまで、当たり前だが、人前で吐いたことはないし、友人に見られたこともない。
だが、体調がよくて、酒が美味しくて美味しくて仕方ない時に限って、突然、何の前触れもなく、急速な酔いが襲い、何回か気持ち悪くなったことがある。
そんな時は、猫は死ぬ姿を人に見せないように、フッと目立たなく、消えたものだ。

 今や、死ぬときは一人は、もう、冗談ではなくなった。
独居老人、自宅にて孤独死。。。な~んて、新聞記事はゾッとしない。

 ほんとうは、さみしがり屋の、人恋しいような人が、ハードボイルドタッチを気取るのかもしれない。

 ちょっと見、苦み走ってタバコを加え、寡黙にして、卑劣な悪漢たちにボコボコにされても、軽口を叩けるような男に憧れた。
バーボンを飲んで、ネオンの街を無鉄砲に去るトレンチコートを着た男の後姿には、孤影が宿るみたい系ですよ。

 でも、上のイメージは、ワンパターンで、記号化されていますね。
セリフも妙に、リリカルで、実は、感傷的な雰囲気をまき散らす。
知性派クール系女子から、男のハーレクイン・ロマンスと皮肉られるのも、よくわかる。

 さて、幾時代かがありまして 茶色い戦争もなかったし、冬は疾風吹かないが、人は一人では生きていけないし、自分がいかに孤独に弱いかを学んだ。
♪思い出す 春の日 一人ぼっちの夜
♪泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 さすがに泣きはしないが、やっぱり、ぼっちはさみしい。
”やっぱり一人はさみしい 枯草”であり、”それはやっぱり君でした”でもある。

 ぼっちの夜は,あたたかい紅茶を飲んで、ミステリ映画を見るか、まったり系の小説を読むか、寒い北国の温泉に行くのも悪くなさそうだ。
ひとときだけ、別な自分に出会うことができるかもしれない。

 ほんとうは、一人ぼっちの時間は、そうわるいものではないはずだが。


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# by nonoyamasadao | 2015-06-26 12:46 | 雑文 | Comments(3)

梅雨時の憂鬱

 梅雨である。
実は、子供のころから、若葉がさやさや揺れる新緑の季節と、梅雨時は、どーにも苦手だ。
いつも能天気なのに、なぜか、柄になく、憂鬱になる。
今風に言えば、病むというのか。
ドーンと気分が落ち込む。
理由は、今もって、定かでない。

 雨露に濡れた色鮮やかなアジサイがきれいではないか、と人は言う。
たしかに、ガクアジサイは美しいが、西洋アジサイは大嫌いだ。
はたまた、日本の美の粋を集め、無理に詰め込んだような墨田の花火も、正直、好きではない。
素直じゃないなあ。。。とか咎められそうで、今まで、書かなかった。
あの、わざとらしい八重が嫌いだ。
まあ、素朴なガクアジサイを、じぃっーと見入ると、物悲しくなって、子供なのに、人生の黄昏や哀愁みたいのを感じた。

 すこし、色気づいたころになると、お洒落なコートを着て、ステキな雨傘をさした美しいお姉さんが、颯爽と歩くのは悪くないなあ。。。などと思うようになった。
漆黒の前髪に、雨のしずくでも、ついてると、あっ、いいなあ。。と、いつのころからか思うようになった。
それでも、梅雨の憂鬱はあって、家で、ぼんやり本でも読んでいたような気がする。

 今でも、梅雨の憂鬱は変わらない。

 遠くなった昔、お祝いに小さなアジサイの鉢植えを、はるか年少の若い女性から贈っていただいた。
地植えしようと言ったら、彼女は大きくしてあげてくださいと言った。

 アジサイの花言葉など、知らなかった。
二宮に住む、本屋のバカ旦那が、なぜか、花言葉に詳しくて、新橋のバーで、自慢話をしたら、ばか笑いして教えてくれた。
苦いはずの思い出なのに、今となっては、なんだか、懐かしい。

 はるか年少の若い女性は、花言葉を知ってて、プレゼントしてくれたのだろうか。
当時はな~んも知らないから、ホント素直に受け取っていたけれど、どうだったのでしょう。

 そんな話を思い出し、どっちに転んでも、今のボクにとっては、ひとときの安らぎになった。
時の流れは、すべてを浄化するのかもしれない。


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# by nonoyamasadao | 2015-06-10 15:35 | 雑文 | Comments(3)

健康診断

 『続・最後から二番目の恋』に、人間ドックでの健康診断をすすめられ、醜くも抵抗する小泉今日子さんのシーンがある。
ジタバタするのは、まったく同じだあ。
ボクも会社員時代は、検診の時間帯は、しばし、トイレに閉じこもっていたことがある。

 一度だけ、悪い先輩(本当は、心優しい)が面白がって、検診場から電話をかけてきて、ご指名で呼び出しがかかっている。。。と言って、医務室の女性に変わった。
ドナ・ドナ・ドーナである。
まあ、暗い廊下を歩いていたら、屠殺場の引かれるようなドーンと落ち込んだ心境になる。
目をつむって、採血したら、な、なんと二本も血を採られたらしい。
見てた人が教えてくれた。こと、健康問題については破滅型ふうでありながら、とことん、男らしくない。

 来月の検診に備えて、15日の休肝日を1日増やして16日にしたけれど、どうも勝つ気がしない。不安はますます、つのるばかりだ。
中井貴一さんが、「確実にじじぃに向かってんだな~」とシミジミつぶやくが、だったら、ジジィはどうする?
小泉今日子さんのように、ぜったいに勝つという闘志すら年々、薄れてく。
ウ~ム、暗い。

 仕事部屋からの帰り道、小学校の菩提樹に黄色い花が、ぽよぽよと咲く。
ぽよぽよとは何ぞやと突っ込まれると困るけど、そ~んな感じだ。
ハート型の葉先がすーっと伸びて、なんだか、気持ちがなごむ。

 空き地には、とうとう、マンションが立ち上がって全容があきらかになる。
立派というべきか、でかい。
先の歩道を、髪の長い女性が自転車で走っている。
紫陽花が鮮やかに咲いて、なつつばきの白い花が、ひっそりと咲く。

 背広の背中に、西日が陽だまりをつくっているように、背が暑い。

 ボクの定年退職後は、老母が寝た後、深夜、ひとりでビールを飲みながら、『 続・最後から二番目の恋』など、見ているのかなあ。
それも悪くない。

 願わくば、海の見える場所か、落ち着いた町並みで、ところどころに、ほほけたススキなど揺れるところに住みたい。


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# by nonoyamasadao | 2015-05-29 11:18 | 雑文 | Comments(8)

北村薫さんの新刊本

 いつのころからか、映画の舞台となっている風景に、しげしげと見入るようになった。

たとえば、『或る夜の出来事』は、たぶん、この地に来てから見た。マイアミからNYに向かうグレイハウンドの夜行バスが、とても気になった。

もちろん、ボーイ・ミーツ・ガールの恋愛物語の方程式の原型は、素晴らしいものだった。

『スウィートノベンバー』であれば、サンフランシスコの路面電車(muni)や黄色いタクシーのイエローキャブに目が行った。『ユーガットメール』なら、NYのアッパーウェストの秋から冬、そして春のホットドッグ店やスタバが興味深かった。

その昔、映画を思想と結び付けてみる裏目読みが流行した時期があった。

ボクの場合は、外国には一生行かないと思うので、旅行気分と食べ物に意地汚いことが、映画の背景好みの理由のようだ。


 北村薫さんの『太宰治の辞書』に、興味津々である。

最初期の『空飛ぶ馬』の、やや素人っぽさを残した上品で、爽やかなストーリーテリングと、きれいな文章が好きだった。

紅茶に砂糖を7杯も8杯もいれるような、実際、そのような人物も知っているのだけれど、『砂糖合戦』の着想のセンスや装丁の高野文子さんの簡潔で、洗練された絵が好きだ。

物語も、文章も、装丁もみな、瀟洒だなぁと思う。

どうやら、作者の友人で、ボクも知っているS先輩への鎮魂歌でもあるようで、やりさしの仕事が終わったら、ぜひ読もうと思う。

そうだった。『空飛ぶ馬』の出版祝いは、S先輩が音頭をとって、うなぎ屋さんでお祝いをして、当時の銀座東武ホテルに流れた。

そっか。あれから、25年も流れたのか。


 太宰治の『女生徒』を題材にした中編は、今から、いろいろと憶測してしまう。

『女生徒』は、ヒロインの独白だけで書かれたもので、太宰にしては破綻もあるが、言葉がキラキラしていて、この世代特有の女の子の生理的な感覚がビビッドで、ドキッとする。

うら若い愛読者の日記が下敷きになっているのは、知っているが、やっぱ、太宰だ。

フム、朝の目覚めの冒頭からして好きだ。

そして、「キウリの青さから、夏が来る。五月のキウリの青味には、胸がカラッポになるような、うずくような、くすぐったいような悲しさが在る」。。。っていうくだりは、忘れられない。

夕靄はピンク色とか、百合の匂いの透明なニヒルという言葉には、みずみずしいポエムがある。


 そして、ボクの座右の銘は、

”幸福は一夜おくれて来る。幸福は、――”である。

今もって、そう思っている。

ところで、ボクは今、熊本のどこにいるのかご存知ですか?


 前橋の秀才だった、亡くなられた世田谷在住のS先輩に合掌。↓は彼が好きだった詞である。



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# by nonoyamasadao | 2015-05-24 11:53 | 短編小説・詞・詩 | Comments(0)

長電話

 会社勤めの1年目は、真夜中に、二宮に住む本屋の若旦那の友人と男の長電話をした。

辛辣な友人批判などもごく稀にはなったけれど、いつもは、ミステリや映画のこと、あとはごく日常的な由無しことあれこれ、要はしょーもない話をダラダラと続けた。不向きだった仕事の話は、いっさい、しなかった。

今、思い返すと、何一つとして思い出せない。

でも、どーでもよいことを話すうちに、その日のウサは、露と消えた。つきあってくれた、二宮のバカ旦那に感謝しなければならない。

 今の時代のtwitterは、サミダレ式では似ているけれど、ひとまとまりの話をうんうん、そっかそっかと聞いたり、あまりのバカバカしさにお互いにゲタゲタと笑いだしたり、同時に気恥ずかしくなったりするのは、あまりないだろう。

言いっぱなしやつぶやきは、しょせんは、独り言なのである。

 若くたって、人生をやっていると、まして多感なころは、『ショーシャンクの空に』の脱出後のように、無量の光を浴びた解放感やトキメキもあるけれど、今はもう経験できないどーしようもない心細さや収束しないさみしさもある。

 結局、嫌なことやなかなか去ってくれないさみしさは、時間がたって薄まるのだろう。

 若い時のボクは、そんな時間のやり過ごし方は、たぶん、本屋さんだった。

大きな本屋さんの幾重にも並んだ棚から棚へと立ち寄り、コーナーを曲がるときに、ごく稀に心がときめくときがあった。

あたかも、一瞬の恋のように、沈んだ気持ちに虹が輝く。

 あれって、なんだったのだろう。コーナーを曲がると、特別な本を発見するわけではない。

街を歩いていて、あの角を曲がると、突然、何かよいことがありそうな予感もあって、本屋さんのコーナーを曲がるのと、同じ感じだった。

 結局、何もないのだけれど、色っぽいような、ちょっとだけシアワセ気分になった。

 今ではもうありえないが、よいものだったなと思う。



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# by nonoyamasadao | 2015-05-15 20:25 | 雑文 | Comments(1)

センダン

 "どっきゅんトーク"なる言葉を聞く。
はて、なんだろ。しらない。
こういう時は、インターネット検索ということで、調べる。
“気になるカレとおしゃべりを楽しむっていうのはもちろんだけど、カレをどきどき、きゅんきゅんさせちゃう会話・・・”とある。

 バーカめ。
男子はドキドキはあっても、きゅんきゅんなどしないの。
もし、いたなら、そういう輩は、馬に蹴られて死んじまえ~である。
しかし、そのたとえは、もう死語だな。
いや、待て。
オレの恋路を邪魔する奴はあアア、オレに切られて死んじまえ。。。ってのが、『幽☆遊☆白書』にもあったゾ。
しかし、『幽☆遊☆白書』も、20才前後の若い人は誰も知らないだろう。

 そういえば、今や、ドキドキもない。あれば、心臓に異常があるときだろう。

 でもさ、ネット右翼には、ならなくて正解だけど、日本人なのだから、カレくらいは、漢字で書きましょうよ。
って、いいながら、バーカも、カタカナだった。

 明るい夕暮れの帰り道、センダンの高木に紫色の花が咲く。
ほぇ、きれいと、しばし見上げる。

 栴檀は双葉より芳し。。。。って、わっかるかなー、ワっからないだろうなァ~、イェーイ。

 よい子のみなさん、正しくは、栴檀は白檀ですからね。

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# by nonoyamasadao | 2015-05-14 16:11 | 雑文 | Comments(0)

ほろよいサマーワイン

 1964年の8月に、アメリカはトンキン湾決議をしてベトナム戦争に介入し,1965年に、当時の中華人民共和国は、天安門前広場の国慶節パレードを中止して、文化大革命前夜を迎えた。
そ~んなことには、ぜんぜん無関心だったけど、そのころからアメリカンポップスや音楽から、遠ざかって行った。これは、鬱屈したアメリカとは無関係ではないだろう。

 ‘60年代前半の中学校時代は、帰り道ですら、楽しかった。
「進路決めたー?」
「まだ、ゼンゼン。」
「台風はいいよね。進路決まってて」
まあ、スマホもないし、イケメンでなくても、それ程、気にしなくてよい時代だった。
そんなころに聴いた甘酸っぱくて、全てが初々しく、未熟で、思春期の真っ只中の曲だった。それがレモンのキッスだ。

♪恋をした 女の子 誰でもが好きなこと
♪目をとじて 静かに待つ 甘いレモンのキッスよ

 う~ん、夢見るように、’恋に恋してた季節’だ。
でも、どうして、レモンのキッスなのだろうとか、真剣に考えていた。
レモンは酸っぱいのに、どうして甘いのか。
ファーストキスはレモンの味と言われた時代だった。
今なら、ナンシー・シナトラつながりで、サマーワインのキッスというのだろうか。
いや、違う。”ほろよいサントリー”の、レモンジンジャーのキッスで、ほろ苦く、ほろ甘いとかいうのかもしれない。

 時代は下って、映画『恋しくて』を観てて、ビビってしまった。
映画では「キスの練習」シーンがある。
男の子と女の子の喧嘩友達同士が、キスしたことあんのかよ、ね~よ、おお、やってやるよ、とか言いながら、本番のキッスのリハーサルをするシーンだ。
本当は切ない、甘酸っぱい青春の一コマのシーンだが、ああ、女の子は、こ~んなことまで練習してるんだ。。。と思うと、敵を甘く見てたことに、つくづく思い至った。

 音楽から遠ざかって、GSブームになってから、また音楽を聴くようになった。
その間、読んでいたマンガのモニターをきっかけに、少女マンガの原作や作詞の真似事を始めるのは、さらに下って、20才ころからだ。

 ミュージックライフの出版社のシンコーミュージックでは、尊敬する漣健児センセイと安井かずみさんたちが、みナみカズみという名前を共有していたけれど、レモンのキッスだけは、安井かずみさんにしか書けない。
天才、漣健児センセイをして、あの詞は書けないと、『恋しくて』を観て、ボクは確信した。

 このころの音楽で、ボクの時間は今も、止まっている。

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# by nonoyamasadao | 2015-05-11 17:51 | 雑文 | Comments(0)

フロントページ

 1975年5月のゴールデンウィークは、今でも覚えている。
明るい陽光が差し込む喫茶店で待ち合わせして、『フロント・ページ』を見に行く。たしか、みゆき座だったと思う。
当時、映画を見るのは色気抜きの親友と、異性では、画板を持った絵描きの恩人しかいない。画板からは、クレヨンの匂いがしたり、絵の具の匂いがした。
絵描きの恩人は、ただ憧れるだけの異性で、まったく手の届かないところの人だった。

 その頃のボクはまだ、ストイックで、飲んだら観るな、観るなら飲むなの時代だった。
異性とは、酒は何度も飲んだけれど、映画を見に行くことはなかった。
真っ白いスクリーンと対峙するような気分で映画を見た。
今は明るい茶の間で、ゆるゆると映画を観てる。堕落したものだが、それも悪くはないと最近、思っている。
要は、結構、映画に命をかけていたんだなと、今にしてしみじみ、そう思う。
 『フロント・ページ』はリメイクのリメイクで、その後も『スイッチング・チャンネル』で、再度、リメイクされた。
ジャック・レモンとウォルター・マッソーの掛け合いがあうんの呼吸で、なんともおかしい。ビリーワイルダー先生のドタバタ演出もさすがに洗練されてて、ゲラゲラ笑い、堪能した。
フロントページとは、新聞の第一面のことで、やっぱ、新聞記者になりたかったな。

 外に出て、6月には『イルカの日』を観ようとか話したのを覚えている。
大学時代の1年下の友人がボクらを見つけ、近寄ってくる。
な~んのことはない、彼もガールフレンドと次の回を見に来たのだった。
みな、顔見知りで、ボクより1学年下で1才年上の親友(2浪)と彼は同期だった。みんな大学のサークル仲間で、彼女だけが卒業したてだった。
彼は、山口百恵さんの『潮騒』を観ようか、これにしようかで迷ったみたいだ。

 立ち話して別れると、親友は自分も含め、我々男どもは、ちっとも成長していないという。
この年代では、社会人1年目となる女性は、学生時代とがらりと変わって、大人びた女性になっていた。
男二人じゃ、ニューヨーカーのようにはならないが、本屋の新刊をのぞいたり、銀座を散歩して、休日のパブで、明るいころから飲む。

 この年の2年後の彼女の誕生日に、カップルは結婚した。
男どもは成長しないと嘆いた我々は、その後、十数年以上、何ら身辺変化はなかった。
そして、暇を見つけては、おいしい刺身が食えて、温泉があって、美人女将の名館で酒を飲み、くつろぐ。
親友は、50才少し前になり、突然、炎のごとく、電撃的結婚をする。

 ボクはといえば、な~んの変化もなく、相変わらず、美味い刺身と温泉と酒をこよなく愛す。

 ここまできたら、もうどうしようもないなぁ。

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# by nonoyamasadao | 2015-05-09 15:27 | ヒッチ・ワイルダー | Comments(1)

連休の散歩道

 老母が八百屋さんにいったついでに、鉢植えカーネーションを買ってくる。
クレアか、カミーユピンクという品種のプレゼント用の十分の一くらいの価格である。
自分用に買ってきたみたい。
こーゆー時は、 つくづく親不孝なジジィになった息子だなと、我ながら、さみしくなる。
まあ、普段しない母の日のプレゼントなどして、老母の寿命でも縮めたら大変だと居直ってみる。

 仕事部屋の帰りに、赤っぽい新芽を残しつつ緑色に変化したケヤキ並木を歩く。
信号を曲がって、小学校前の歩道を行くと、前に、おばさんの二人ずれが、おそろしいほど,のんびりと歩く。
ボクも書類を詰め込んだ重いショルダーバックを掛けているから、まっ、いっか。
帰途を急ぐわけでもないので、こちらもチンタラ歩く。

 あれま、おばさんたちは立ち止まる。
ショッピングセンターの裏手の現在、建設中のマンションのはるか上の空を見上げてる。
ピ-チュク、ピーチク、間断なく、鳴く鳥の声がする。
おばさんたちは、ひばりが見えないとかいっているので、ああ、あれが、ヒバリなのかと初めて知る。いや、勉強になった。
いつも聞く鳥なら、東京ならカアカアカアと鳴くカラスが、この地では、クアクアクアと聞こえる。方言だろうか?
まあ、川が流れるように、空き地にも草が生い茂り、枯れていくのを、この道を行き帰りするたびに繰り返すと、ぼんやりと思っていた。それが荒らされれば、鳥だって、驚くよな。
都会のリーマンをしていたころは、行き帰りは無表情で無関心で、疲れ切って電車に揺らていた。

 大好きな川上弘美さんの小説を読んでいたら、イイ男でもなく、背も高くなく、お金も持たず、面白い話もしない、そんな男性でもモテルことがあるという。
女性の話をよく聞く男性は、すごくモテルという。
嘘だあ。
リーマン時代は、酒を飲むと、いつだって、女性の話ばかりを聞いてきた。
だが、非モテ道一直線には、いささかの変化もなかったゾ。

 だが、最後に納得した。一番、重要な条件が末尾に書いてあった。
いつも機嫌のよい男でなければならない。
そっかあ。
いつだって、意識の水面下では鬱屈していた。いや、すっかり忘れてた。

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# by nonoyamasadao | 2015-05-05 13:03 | 雑文 | Comments(0)

ドツボにはまる

 主婦のけものみちである”買いもの道“(川上弘美さん説)を歩きながら、バート・バカラックを口ずさんでいた。
♪raindrops are falling on my head
『明日に向かって撃て』の主題歌である。
すぐに、英語の歌詞に行き詰り、でたらめに歌うが、情けなくなってやめる。

 いっとき、バカラック・ブームがあった。
明るく、からっとしたボサノバ調のアレンジで、トランペットや複雑なリズムが絶妙だった。
お洒落で、ゴージャスな気分になった。
けれど、すぐ飽きた。

クロード・ルルーシュ監督の『男と女』も、流麗な映像と音楽の配合に陶然となり、これぞ稀代の映像詩人が現れた。。。と思ったものだ。
けれど、数作で、もういいやってなった。
ポエムを意識したカメラワーク、車、食事、子供、老人、音楽の組み合わせで構成されただけで、お話自体は軽薄で、内容がないのに気づいたからだ。

 バカラック的イージーリスニングは、くつろいで楽しめる。。。ということなのだろう。けれど,万人に愛される狙いは、毒にも薬にもならないものになる。
 ただ、I’ll Never Fall in Love Again(恋よさよなら)は、好きだ。
ニールサイモンの舞台が好きなせいもあるけれど、ハル・ディヴィットの作詞がいいなって思ったからだ、

♪I’ll Never Fall in Love Again、まあ、二度と恋なんかしない。。。という失恋ソングである。
恋をすると、碌なことがないと、えんえんと語った後にー
So far at least until tomorrow
I’ll Never Fall in Love Again
もう、ずっと、すくなくとも明日まで、二度と恋などしない
な~んだ、明日かよって、笑ってしまった。

 子供のころ、肥溜めに落ちる夢を見た。今なら、ドツボ(ところにより野つぼ)である。
I’ll Never Fall into ドツボだ。
夢でも,もがけばもがくほど沈んでいき、ああ、たまらん、死ぬ~。ぶくぶくぶくぅぅ…。

 まあね、恋は育むもじゃない。落ちるとか、ドツボにはまる。。。は、当たってるかもしれない。
ドツボにはまった人のその後の人生は、きっと、素晴らしかったに違いない。

 何故って?幸運だったからさ。

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# by nonoyamasadao | 2015-05-03 12:21 | 雑文 | Comments(0)

人生は五十七から

 いっとき、小林信彦さんの『人生は五十一から』といコラムを読んでいた。
人間は五十を過ぎて、いろいろなしがらみなど知って、世の中が別に見えてくるということなのだろうか。
よく見えてくるというのは、若い時の感性がより確かだから、年寄りの弁解のようにも聞こえる。
だから、別に見えるにしておこう。
まあね、人生は不条理なものだと思う。筋書きのないドラマだ。
けれど、そう捨てたもんじゃない。
腹も立つけれど、まっ、いっか、とすぐに忘れる。すべからく、淡泊になった気がする。
昔は、毎日が、楽しくて、楽しくて、しょうがなかった時もあった。
ああ、思い出してしまった。
子供のころに習った童謡?かしらん。
♪あの町 この町 日がくれる。。。って、ありましたよね。
あの町にも、この町にも日暮れは訪れ、やがて真っ暗になるけれど、シアワセなことだけ思い出して、やな記憶はどんどん、希薄になっていくことだけは確かだ。つまり、年くっただ。

 ボクの場合は、老いと大人になるのが、連動している気がする。
しかも、ボクにとって、人生は五十七からなのだ。
酒は3日1度になり、禁煙をはじめ、1日2食にして、再び、映画に戻ってきた。

 ボクにとって、エポックメーキングな出来事は、ブロッコリーが好きになったことだ。
ブロッコリーは木だから、嫌い。。。と発言したのは、志田未来さんだった。
そのころは、う~ん、同感、同感、太田道灌な~んて思ったもんだ。
ブロッコリーは木ではなく、蕾の状態の花序と茎だそうだ。
言ってみりゃ、アジサイの花と茎を食べてるようなもんでしょ。
違うか?
サラダとか、ペペロンチーノとかは邪道だ。
ゆでたての青々としたブロッコリーをモグモグといただく。
一瞬、ワタクシはハムスターかと思うけど、高原の香りがたまらん。
いや、思えば、大人になったもんだ。。。と、自画自賛しながら食す。

 もう一つ、大人になったなぁと思うのは、レタスの味に開眼したことだ。
愚かにも、レタスは味がなくて、食感だけだと思っていた。
これは、食感ではなく、みずみずしさが楽しい。
いや~、大人になったもんだ。

 なんだか、江國香織さんのエッセイ『やわらかなレタス』が読みたくなった。

 ↓穴沢ジョージさんのブログを真似して。

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# by nonoyamasadao | 2015-04-24 15:26 | 雑文 | Comments(0)

SWEET MEMORIESだったころ

 松田聖子さんのB面に、『SWEET MEMORIES』という傑作がある。
ペンギンが歌を歌って、泣かせる味じゃというナレーションで終わる”生”の缶ビールのCMがあった。
まあ、実際に生なのでしょうが、ボクのようなビールの素人は、缶ビール、瓶ビール、生ビールは別だと思っていた。缶ビ-ルは缶くさいと思うと、まことに味気ない。

 『SWEET MEMORIES』は、途中で、英語に変わるので、今もって、カラオケでは歌ったことはない。
30代の前半といえば、立派なオヂサンなのだけど、当時は自覚がなく、『ガラスの林檎』とか堂々と歌っていた。今、思い出すと、駆け出したいほど、恥ずかしい衝動に駆られる。

 そのころは、ビールは前座で、グィっとひと飲みしたらすぐ飽きて、日本酒に旬の刺身に移った。まあ、早く、酔ってしまいたかったのかもしれない。
どちらのお酒の味もわかってなかった。

 『SWEET MEMORIES』が流行りだした頃は、千歳船橋から銀座や新橋に出て、銀座の三笠会館そばの豊後料理か、ニュー新橋ビル地下の金沢料理で、ビールを前座に日本酒を3本くらい飲んだ。
二件目のサントリーバーで、サン・ミゲルやツボルグのコクがあるような、フルーティなようなビールを味わって飲んだつもりだ。
ボクの味覚だから、あてにならない。

 サンドイッチは芝生に似合い、おにぎりはベンチが似合うと書いたのは、東海林さだおさんだった。
フム、フム、なるほど、さもありなん。
川上弘美さんのエッセイで、20代前半の女の子が公園の芝生に座って缶ビールを飲んでいると、初老のオヂサンにビールをたかられ、一緒にビールを飲み、タバコをふかすという話があった。
う~ん、今の季節に、ハナミズキでも眺め、芝生の上で、1人でも缶ビールをグィと飲み、青空に向かって、タバコをふかしてみたいなって思う。
けれど、いや、それはならぬ。
きっと、また、タバコ中毒に戻ってしまうに違いない。

 今、思い出すのは、5月ころの四万十川の水辺で、缶ビールを飲んだことだ。
対岸で子供たちは水浴びをして、ボクは缶ビールを飲む。
ときおり、背後の道路を車が走っていく。
川は静かに流れ、かなりの数のトンボが河原を舞う。
河原に大の字になって、缶ビールを飲み、鬱屈の日々をうっすら思い描く。

あれは、ボクのささやかなセイシュンであったなあ。

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# by nonoyamasadao | 2015-04-21 11:02 | 雑文 | Comments(1)