いつでもどこでも映画と読書、あとなんだろう
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それが一ヶ月に十日の飲酒。辛か~。 休肝日の過ごし方ってむつかしい。それで学生時分に戻って、いつでもどこでも映画と読書に明け暮れようと思う。大好きな川上弘美さんは、読書三昧の毎日を、なんだか彩りに欠ける人生ではありますと謙遜して書いていた。う~ん、こちらは実感だなぁ。
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<   2008年 05月 ( 11 )   > この月の画像一覧

はやくも暑くて、能率が上がらない日々

 この数日、真夏日が続く。なんかもう、暑くて、暑くて、能率が上がらないったらない。背広で歩くと、はやくもだら~っとしてバテ気味。今年も猛暑日が多いのだろうなぁ。入梅前なのに、ゲッソリだ。
イライラしたり、夏ばてのときは、おっとり、ポーッとした天然系か、おバカ脱力系の映画に限ります。すなわち、何も考えない、かつ考えさせない映画が一番である。 
「天然コケッコー」を観た。略して「天コケ」。この物語のほのぼのとした空気感には、ホント癒されました。牧歌的ですよね。事事しいことがなくて、さらっと流しとるけすがすがしいんよ。のんべんぐらりと、暮したい。
ロケ地というより、島根県浜田市周辺に長逗留したような気分になりました。この夏に、ワタクシは浜田市の旅に出ようと思っています。
海辺なんですよねえ。ひらまさも石鯛も釣れるんですよねえ。海水浴もできるし、温泉だってある。う~ん、堪りませんわぁ。
原作のくらもちふさこさんのことはよ~く、聞いておりました。前にも書きましたが、学生のある時期、少女マンガの原作の真似事をしてました。講談社の“少女フレンド”に、原作を持ち込んでいたのですが、その少しあとに、くらもちさんはデビューされたのではなかったかなぁ。僕には「マーガレット」(集英社)の人だというイメージが強かったです。
まあ、一直線に伸びる通学路。見渡す限り緑の山。まわりは田園風景がゆったりと広がって、青空がいっぱい。やっぱ、田舎はよいよなあ。。。。って、あれれ、前回はやっぱ、東京はよいなぁって書いたけど、僕には、やっぱ田舎の生活の方があっていることだけは確かですね。
だけど、いまどき、こんな純朴で、かわゆい女の子っているのでしょうか。それも、しっかりものなんだよなあ。夏帆が演じた少女がかわいすぎじゃけん。もしワタクシに愚息がおりましたならば、「金の草鞋を履いてでも探しまんがな」。。。。これもホンネじゃけん、書かんわけにはいかんけえのう。←あーた、いったいどこの人???

 「キサラギ」。売れないアイドルが死んで、一周忌。ファンサイトの主宰者である家元(ハンドルネーム)の呼びかけで集まった五人の男たち。小栗旬、小出恵介、ユースケサンタマリア、塚地武雄、香川照之といった個性派俳優が顔を揃えた。
ワンセット・ドラマで、しかもミステリ仕立てだから、うれしいじゃあ~りませんか。。。と書きたいが、残念、工夫を凝らしたシチュエーションがいかされていない。つまり、会話劇になり損ねたのだった。もっとスラップスティックにするか、オシャレ会話が飛び交うシチュエーション・コメディーにするか、本格ミステリにするとか、やりようがあると思う。洗練コメディーを狙ったのだろうが、中途半端なんじゃね。
 シドニー・ルメットの「十二人の怒れる男」と較べるほど野暮じゃないけど、中原俊の「12人の優しい日本人」と較べても、かなり脚本が弱いよなあ。同じことをやろうとしているのだが、泥臭いし、ミステリ劇としてなら格段の相違があった。
古沢良太と三谷幸喜の腕の違いでしょうね。あ、でも、リドル・ストーリーのようなつくりは、おお~、やっとるわいとうれしく思いました。佐藤祐市監督は「シムソンズ」以来のゴヒイキで、この作品でも才気の片鱗がうかがわれた。
香川照之はやっぱ、天賦の役者ですね。三國連太郎の域に迫るならこの人かもしれない。やりすぎない、微妙にキモいのだが、きわいところで寸止めの演技には唸りました。
ワタクシは「白い巨塔」を財前五郎は堤真一で、里見修二は香川照之で見たかったんじゃ。どうなるんじゃろうか。いろいろ名場面を考えるんも、ええもんじゃね。あ、いかん。また、島根弁に戻ってしもうた。

 「サイドカーに犬」は、根岸吉太郎の傑作です。といっても、ワタクシ、根岸監督をまったく評価していないものだから、こういうの撮れたんかいと驚いたわけです。わりとジトッとしたタッチの多湿な監督さんなのだが、この映画は爽快感がありました。
別に、ワンコが主人公の映画っていうわけではありません。マァ、ちょこっと、サイドカーにシェパードが乗ってましたが、本筋とは無関係です。夏らしい映画で、バテ気味なのに夏が待ち遠しくなりました。原作は長嶋有で、「猛スピードで母は」(文春文庫)に収められています。この原作者は子供の視点から大人を描いたものが多い。本品も原作通りである。
竹内結子さんは、いい女優になられましたね。煙草スパスパ、ガサツ、ハスッパ、無神経な女性像ですけど、じつに豪快ですなあ。ワイルドというより粗野ですね。粗野だけど、あたたかい女性だ。竹内さんは、なんか一皮剥けて、はじけた感じがありますなぁ。あだっぽく、清冽だった。
また、子役の女の子が上手い、上手い。古田新太さんもいい味だった。舞台だと、とっても色気のある役者さんです。
「嫌いなものを好きになるより、好きなものを嫌いになるほうが難しい」って言うせりふがありましたが、僕の年になると好きなものはもう嫌いになれません。
そんなせりふより、麦チョコに冷えたコーラがおいしそうでした。冷えたビールでもよさそうだなぁ。今夜、試してみましょう。竹内結子さんのコーラでゲップも、ご本人らしい感じだった。「猛スピードで母は」も竹内結子さんで見てみたい。

 シドニー・ポラック監督が亡くなられました。「ひとりぼっちの青春」、「追憶」、「出逢い」「トッツィー」、「愛と哀しみの果て」など、佳作は多いのですが、大傑作になり損ねた作品が多かったですね。
でも、「ひとりぼっちの青春」は名作でしょうね。原作のホレス・マッコイの「彼らは廃馬を撃つ」も傑作でした。映画のマラソン・ダンスの場面は圧倒的な臨場感がありましたね。ファーストシーンとラストシーンは今でも、鮮やかに記憶している。
この映画公開の後に小説だけど、イギリス本格のピーター・ラヴゼイの「死の競歩」、リチャード・バックマン(S.キング)の「死のロングウォーク」が続いたんですね。みんな、競歩で人が死んでしまいます。
名匠シドニー・ポラックに合掌。

 昨夜、DVDを観た後に、チャンネルを回したら、アラーキーが出演していた。この人は朝起きてから寝るまで、写真のことしか頭にないようだ。
な~んて素敵な人生なんだろう。たぶん、それは限られた人だけに与えられたものだろう。
亡くなられた奥さんのデスマスクと猫の写真は見て知っていたが、あらためて見ると、ああ、アラーキーって、やっぱ天才なんだと思った。猫のチロちゃんが雪をジャンプする写真は、感動的だった。さっちんと並ぶ傑作だ。昭和の残像を撮る最後の映像詩人だと思う。

 今、五階の部屋から外を眺めていると、タイサンボクのような巨木が遠くの学校のところに見える。自然樹形だが大きな木が、白くなっている。
帰り道、寄り道をして、観察してから帰ろう。

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by nonoyamasadao | 2008-05-29 17:06 | 雑文 | Comments(2)

やっぱ散歩は楽しい

 「センセイの鞄」を観てから、邦画ばかり観ている。国産映画の方が楽である。
遠い昔になるけど、一日に早川のポケミス二冊を読んでいた。時々、松本清張、陳舜臣、鮎川哲也、土屋隆夫などの本格物の新刊書を読むと、国産ミステリばかり続けて読んだ。そのときと同じ感じだ。
 三木聡監督の「転々」は井の頭公園から始まった。おお~、お懐かしや。井の頭公園ももう随分、変わってしまったなぁ。。。などと隔世の感に打ちひしがれていると、あれま!、吉祥寺の商店街の移動撮影がエンエンと繰り広げられるではないか。それもワンカットだ。これは、ジム・ジャームッシュ監督の初期数作から「ミステリー・トレイン」と同じだあ。。。。とすっかり、うれしくなってしまいました。

 この映画は、井の頭公園を皮切りに、調布の飛行場、阿佐ヶ谷、新宿、上野桜木、浅草花やしきのジェットコースター他、都電荒川線、桜田門までのロードムービーである。正調“ゆっくりとまったりと”の映画であります。散歩って楽しいよなぁ。街歩きっていいよなぁ、とつくづく思いをあらたにいたしました。僕はやっぱ、東京が好きなんだなぁ、すっかり田舎者になってしもうた。。。と不覚にも、少々涙目になったのでありました。この映画を散歩日和のnobulinnさんがご覧になったら、たぶん狂喜乱舞をなさるに違いない。

 内容は当節ふうに言うと「ありえなくない」というメルヘンである。会話もどこまでが、即興なのか判然としない。「これって、なんなの」会話が飛び交う。同録も多いのではないか。見方によっては、不条理映画でもある。まぁ、オダギリジョーはともかく、 三浦友和のヘアスタイルには想像を絶するものがあります。ふつうなら引くでしょう、あれ。百恵夫人の心中や如何に・・・であります。しかし、岸部一徳さんは実名のご出演だけど、笑ってしまいました。微妙にキモく、何気にカッコよい。存在感アリアリですね。

 男二人の奇妙な旅というと、ジェリー・シャッツバーグ監督の秀作「スケアクロウ」を思い浮かべてしまいますが、あちらはメッセージ性があるし、シリアスな部分もアリでしたが、こちらはゆるくて、軽い。ぬるい温泉にドップリつかって、いろんな風景を眺めていたら、ちょびっと、家族って一体なんだろう。。。な~んて、いつしか柄になく考えていた自分がいたっていう様な映画でした。線路沿いのところで、故 リバー・フェニックス主演の「スタンド・バイ・ミー」なんぞ、勝手に思い描いてました。

 上野桜木の喫茶「愛玉子」って知らなかったけれど、あのレモンシロップのゼリーが妙に、美味そうでした。あと、花やしきは相変わらずでんなあ。ちゃっちい、チープ、しょぼい、のがツボですね。あの安っぽさは浅草の財産ですね。大都会のオアシスといってよいでしょう。でも、この映画の終わり方は、なかなかハードボイルドタッチでありまして、結構、スタイリッシュです。またまた、ジャームッシュのブラックアウトを想起いたしました。
新宿の場面とエンディングに、ムーンライダーズの曲が流れます。絶賛する映画ではないけど、うん、いい気分になりました。

 朝、近所の住宅の常緑のモッコク、斑入りアオキの葉がつややかだった。梅の実も大きくなり、ガクアジサイの額縁の紫が美しい。
ウメの収穫ももう近い。

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by nonoyamasadao | 2008-05-26 14:24 | 雑文 | Comments(2)

ラーメンが大好きだったころ~ALWAYS 続・三丁目の夕日

 世の中でいちばんかなしい景色は雨に濡れた東京タワーだ。
と書いたのは江國香織だが、「ALWAYS 続・三丁目の夕日」の東京タワーは濡れていないので、かなしくなんかない。鈴木オートの一族郎党が東京タワーから見る夕日はきれいだった。僕は重度の高所恐怖症だから、東京タワーのエレベーターを上って行き、展望台に立ったときのオートの則文(堤真一)の足元が覚束ない不安感はう~ん、同じだ。渋谷の歩道橋でも、足がすくむのだ。
堤真一はついさっき「スマステ」に出ていた。宮古島で泳いでいたら、前の晩、飲みすぎたため、海で吐いたと言ってた。生番組なのに普段着の役者だ。あ、もとい!。
ラストの日本橋の茶川(吉岡秀隆)、ヒロミ(小雪)、淳之介のシークエンスはやっぱ、くすぐったいのを通り越して、どうも頂けません。
この映画では、日本橋はメロドラマの秀作「哀愁」のウォータルー橋のような存在である。
この映画はだいぶ、前作より落ちます。CGも、あまりいけてないなー。

 正面に大丸デパートが見えたけど、鉄道会館ビルはもう解体された。ぜんぜん知らなかった。地方に住んでいると、こういう話題には疎い。
この映画の状況設定は、昭和34年だそうだ。4月には、皇太子御成婚、9月に伊勢湾台風上陸だから、台風の少し前くらいのころだろうか。
この年だと、荻窪の社宅に住み、8才か、9才になったばかりの頃だ。
そのころ、都電荻窪線に乗って、母にくっついて、よく新宿に出掛けた。
少し調べたら、都電荻窪線は西武鉄道の経営であった。
都電荻窪線は正しくは、杉並線というそうだ。
終点の新宿停留所は、今の新宿大ガードの手前にあった。前作の三丁目の夕日では、都電はつながっているみたいだが、新宿の西と東で接続は切れていた。

しかしあれですな。「くださいなっ! ...」なんて、子供たちが一斉に言うと、駄菓子屋さんが懐かしい。
この時代、子供だったからか、父兄より子供たちにアイデンティティがある。無限後退のようだ。

さすがに、マァ、後ろ向き人生を反省しきりであります。
少しは前向きなことも書かないと、老化現象の遅延になりませんしねえ。

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by nonoyamasadao | 2008-05-24 23:59 | 雑文 | Comments(2)

DVD化「センセイの鞄」雑感

 テレビ映画の「センセイの鞄」を観た。久世光彦の秀作である。「ああ、食った、食った。飲んだ、飲んだ。という映画」だ。と同様に、四季の彩りを背景に、三十と少し離れた、年の差カップルの恋愛ドラマでもある。ゴキゲンなできだ。
撮影期間は22日間だそうだ。秋、暮れからお正月、桜、夏、秋が描かれている。セットと実写との映像の違いなどはあからさまだが、まあ、お堅いことは抜きでいい。近来希にみる爽やかな情感が揺曳している。
実は、この原作の川上弘美さんの同名小説の半分ほど読み進んだところで、自らまいた種だが、怪我をして外科手術をする羽目になった。怪我は完治したが、以来、験をかついで、小説はよみさしのままだ。
朧な記憶では、川上弘美さんの得意分野を総動員して出来上がった小説だったような印象がある。

 秋の宵、豊田行きの中央線が走り、大町ツキコ役の小泉今日子が国立駅前を歩く開巻である。小泉今日子のナレーションが挿入され、回想シーンになる。居酒屋(季節料理屋)でたまさかセンセイと再会した時、大町ツキコは37才、センセイの柄本明は70才という設定だ。それからの二人の、二年と少しの心の交流が、映画の全部だといってよい。
タイトルの「センセイの鞄」だが、どうして“センセイ”にしたのだろうと考えた。僕は、ツキコがセンセイ、センセイと連呼するため、色のつきにくい記号のようなカタカナ表現にしたのだと思った。ツキコという表記も“同じく”である。二人はいつも、「センセイ」、「ツキコさん」と呼び合う。
「先生」と「月子さん」では鬱陶しいではないか。だから、作者の川上さんの工夫だと考えた。
 だが、テレビ映画を観ていたら、気が変わった。もしかしたら、折り目正しく、一応敬愛の念を抱かれていた時代の教師像としてのシンボリックな表現が“センセイ”なのかな。。。と考え直した。川上さんも数年間だが、教師をされた。
今だったら、女性たちから殴られそうな「女の子のくせに・・・」とか、「女のくせに手酌ですか」というセリフがよく似合う松本春綱先生である。また、その物言いが嫌味ではない、ご老体だ。
実際、映画では全て、手酌である。センセイのところから出奔した妻の墓参りした日間賀島の宿で、蛸しゃぶを食すときに、センセイがツキコに二回、お酌してあげるだけだ。

 この映画の小泉今日子は実に魅力的だ。厚手タートルのセーターとジーパン、そしてロングマフラーの普段着がよく似合っていた。
酉の市で、歩きつかれ、喉が渇く。
「我慢します。夕方にビールを飲みますから、それまでは何も口にしません」
センセイはそんなツキコに「よくできました」と答え、頭を撫でる。ツキコが童心に返った一瞬である。コイズミ、存在感があります。
小泉今日子とて、年令相応にそれなりにふけているが、ナチュラルで、そこがいい。
前髪パツンで、ふくれたり、三白眼だったり、ポカンと口を開いて放心したり、咥えタバコだったり、酔眼朦朧であったり、盃からお酒をすすったり、いろいろな表情を見せてくれた。演技はお世辞にも上手いとは言えないが、身体的動作が自然でよい。駆けたり、体を揺らしたりする。この演出は相米慎二の十八番だったが、久世監督も真似たのかもしれない。

 センセイの柄本明もさすがである。ツキコとの静かな交流の中で、池に投げた小石の波紋が徐々に広がっていくように、華やいでゆく気持ちを抑制の効いた演技で見せてくれる。

 好きなシーンはいくつもあるが、二つだけ書く。
 紅葉の季節にキノコ狩に行って、キノコ鍋をみんなでつつく。センセイが出奔した妻が笑茸を食した話をする。センセイが妻の話をすると、ツキコはいたたまれなくなって、ばっくれる。
強がりのツキコは、昔のように一人で買い物に行き、一人でお酒を飲んだ。すこし前までは、いつだって、一人だった。
季節は暮れになった。友達を呼んで寄せ鍋をつくる。
お正月になり、実家の母の湯豆腐を食べる。けれど、どうも話は弾まない。
一人暮らしの部屋に戻り、センセイと再会した、行きつけの店に行くが正月休みで閉まっている。
ツキコは咥えタバコで、所在無くリンゴをむく。アパートの近所をほっつき歩く。夜だ。空き缶を蹴る。“銀座カンカン娘”を歌いながら、夜道を一人歩く。
そして思った。
歩きなれた道なのに、迷子になったと。。。このシーンはせつない気分をうまく描いている。
偶然、再会した名前も思い出せなかったセンセイが好きになっていた。
知らず知らずのうちにセンセイと、同じ道を歩きはじめた自分を見つけたシーンだ。

 もう一つなら、これにしておく。センセイの元妻は波乱に満ちた生涯だった。彼女のお墓のある日間賀島にセンセイと旅をする。島から帰ってから、センセイとツキコはすれちがいになる。
カラオケで“銀座カンカン娘”をまた歌う。“The Stardust Memory”のノリだが、元来、小泉今日子は歌が上手くないが、わざと下手に歌っている。
かなり酔っ払っている。酔っぱらっているのが悲しいと、はじめて思う。
センセイと長く逢わなければ、感情も立枯れさせることができると思った。だが違った。
今まで、一人で結構楽しく生きてきたはずなのに、本当に、一人で楽しく生きてきたのだろうかと、来し方を疑ってみるシーンだ。
「人生にはぐれた」、そんな気がした“恋する女”になった場面だ。

 僕が綴るとなんだか通俗だが、妻に出奔された過去のある70才の老人と、37才の一人暮らしの女性のビターな物語だ。都会派コメディー仕立てだが、別れの日がそう遠くない先にくる恋愛である。こんなやりとりがある。
「ツキコさん、ワタクシはいったいあと、どのくらい生きられるでしょう」
「ずっと、ずっとです」
「そうもいきませんでしょう」

 ただ、この映画には希望がある。大嫌いな難病ものの対極にある。
かくて、恋愛を前提としたおつきあいは三年間、続き幕を閉じる。
ツキコがセンセイのからっぽの鞄の中をのぞいて、大泣きするところで終わるエンディングもよい。

 この映画はヒッチ師匠やワイルダー先生のように、小道具の使い方が実に上手い。
汽車土瓶、新聞紙、湯豆腐(トーフだけのと鱈、春菊など入る)、キノコ、卸金、鮎、雷、ヒグラシ、コオロギ、Tシャツ、そして鞄である。このほとんどは原作のアイディアだと思うが、映画で活きるかどうかは、演出家の腕である。
 
 特別出演の品数を列記しよう。まぐろ納豆、蓮根のきんぴら、塩らっきょう、やつがしらの白和え、さらし鯨の酢味噌和え、(辛い)柿の種、シメジのホイル焼き、キノコ鍋、寄せ鍋、湯豆腐、イカの白造り、鮎の塩焼き、蛸しゃぶ、枝豆、スーパードライ、北の誉れ、澤乃井など。

 一体、ワタクシはどんなふうに生きてきたのだっけ。。。と反省すると同時に、ああ、三軒も四軒もはしごして、美味い酒肴をたらふく食いたいと、つくづく思う一作でありました。

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by nonoyamasadao | 2008-05-18 16:47 | 川上弘美 | Comments(3)

堤真一とディビット・ルヴォーの舞台

 九月のシアターコクーンは、「人形の家」だそうだ。
ノラは宮沢りえ、夫のヘルメルは堤真一が演じる。演出はディビット・ルヴォーだそうである。これは必見の舞台となろう。
堤真一はT.P.Tの「バタフライはフリー 再演」まで観てきて、しばらく間をおいて、「キル 再演」以降は全部、観ている。正確に書くと「写楽考」は観ていない。テレビ観劇だった。
「写楽考」の鈴木勝秀の演出は、矢代静一の畢生の名作への冒涜である。時間短縮のためのショート・カットだというが、戯曲をズタズタに切り裂いたとしか、他に言いようがない。阿漕なことをする。
 堤真一の舞台観劇に空白があるのは、勤務地変更による遠距離の問題による。仕事もどうにか、一応格好がついた?(タブン)ため、飛行機を利用しての観劇になった。贅沢だが、他にたいした楽しみがないから、まっ、いいではないか。

 宮沢りえの舞台は「ロープ」、「ドラクル」と概ね、高評価であり、とにかく美しいとの評判をよく耳にする。実は、舞台も映画も、よく知らない。デビュー映画の「ぼくらの七日間戦争」という毒にも薬にもならない、おバカな映画は観ていた。だがこの映画はバカにしながら、存外楽しめた。
前の勤務先の頃、彼女のヌード写真集が出版され、若い社員が買ってきたので、チラ見をさせてもらった。きれいではあったが、エロスは感じなかった。

 既述の空白のため、ディビット・ルヴォーと堤真一の舞台は、あまり観ていない。
リストをじっくり眺めていたら、「双頭の鷲 初演」、「テレーズラカン 再演」、「ルル」、「Naked 裸」の四作だけであった。最初の一作など、ほとんど印象がない。ルヴォー演出は、抑制が効いているのだが、なぜか急迫した緊迫感があった。厚みのある演出だが、美しく気品もあった。
小屋がベニサン・ピットであっても、濃密な空間が広がり、照明も特有だった。ルヴォーらしくないといわれる「ルル」も重厚だった。堤真一が踊るタンゴはこのブログで、既に書いた。(http://sadanono.exblog.jp/7072667/)
決め付けはいけないが、堤真一はおそらくミュージカルには出演しないと思う。
ディビット・ルヴォー演出のミュージカルがブロードウェイで大成功をおさめ、T.P.Tで「ナイン THE MUSICAL」と題され公演された時、純名りさの歌が好きだったので観に行こうと思った。
だが、フェリーニの「8 1/2」がモチーフだというので、やめてしまった。ボブ・フォッシーの「オール・ザット・ジャズ」のような作品がちらついたからだ。
フェリーニがゴヒイキというのではないが、あの絢爛たるイマジネーションは余人をもっては代えがたい。夢見るような映像美学は舞台では、とてもムリだ。
 
 その「Nine」が映画化される。ニコール・キッドマンとジュディ・デンチの2人のオスカー女優への出演交渉中だそうだ。主人公の映画監督グイド・コンティーニをハビエル・バルデムが演じ、ペネロペ・クルス、マリオン・コティヤール、ソフィア・ローレンの出演がすでに決まっている。監督は映画「シカゴ」のロブ・マーシャルだそうだ。

 今度のイプセンの舞台、「ああ、その奇蹟中の奇蹟」(矢崎源九郎訳)の話はどう演出され、どう演じられるのだろう。太宰治の「葉」の「ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」だったりしたら面白い。だが、それはありえない。
結婚って、な、なんざんしょね。

 堤真一の映画はどれも感心しない。「舞妓Haaaan!!!」、「魍魎の匣」など、う~ん、どうもねえ~としか言いようがない。考えてみれば、彼らしいのは「39 刑法第三十九条」くらいだ。
テレビも「セーラー服と機関銃」や「SP」など、才能の切り売り以外のなにものでもない。
 
 一人のファンの立場で書くと、堤真一という役者は野中の一本杉のような俳優ではないと思う。一人で輝くのではない。周囲に練達の役者や彩りのある女優がいて、アンサンブルの中で、すっくと立ち上がり輝く。たくさんの中で、一際華やぐタイプの舞台俳優だと思う。
ルヴォー演出の「人形の家」は、千葉哲也、山崎 一など、達者な俳優たちとどう相互作用するのか今から、楽しみである。

あ、そう書きつつ、ホンネを言えば、一番の楽しみは宮沢りえの美貌を拝むことだ。

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by nonoyamasadao | 2008-05-15 14:21 | 雑文 | Comments(0)

減るもんじゃないけど~竹秋の露天風呂

 連休の間、惰眠を貪っていた。食べて、読書して、DVDなど観て、そして寝るのじゃ、退嬰的ですね。体に悪かろうと言うことで、散歩にでる。
青空の中、竹やぶが新緑になっている。春の光に、鮮やかに輝いてた。
あ、きれいだと思いながら、今年もタケノコの旬は終わってしまったのだなあ。そう思うと口惜しくもあった。タケノコご飯をもっと食べておけばよかった。
皮付き焼きタケノコは、まだ今年一回しか食していない。朝掘りを皮付きで、直火で網焼きすると香ばしくなる。アツアツのそヤツの皮をむいて、塩で食べるとタケノコはちょぴり甘い。しんなりして、野趣豊かで、芳しく、歯応えよく、そしてオツな味だ。
ウヘッ、こりゃ堪りません。ってまた、たべものに意地汚いのが露出してしまいました。
ほかに考えることないの~と罵倒されそうなので、「竹秋」の露天風呂について書く。

 ところは、湯郷温泉である。新幹線の岡山駅からバスで100分だそうだ。もっと近かった気がする。竹亭という宿に泊まった。会社の同僚の結婚式が福岡市内で決行されると言うので、東京から大挙して出掛けた。上司たちはみな、飛行機だから、僕と相棒は、休暇をとり別行動で湯郷―倉敷ー福岡の二泊三日コースをエンジョイした。
三十路を越していたのに、学生気分のままだった。お気楽で、仕事人間への自覚は皆無だ。今、思うととんでもない会社員だ。

 竹亭の露天風呂は宿から一端、外に出て道路を隔てたところにあった。石段を上ると左手が男湯で、右手が女湯になっていた。
おっ、銭湯でんがな。神田川の世界だ。
ふ~ん、周りが竹林だから、秋田なよ竹のかぐや姫の世界だ。「竹取物語」でんがな。
竹林の中に埋もれた岩作りの湯船にただ一人、湯につかる。真っ昼間である。
イヤ~、極楽、極楽!!。命の洗濯とは、こういうことをいうのですね。
竹林の葉が黄色くなっていた。常緑樹の紅葉である。見事なものだ。かくして、タケノコに栄養がゆく。
風もないのに、朽葉色の竹林の葉は青い空をクルリ、クルクルとゆっくり優雅に螺旋模様を描いて降る。
湯船に浮かび、いずこともなく流れていく。
竹林は四月の陽を浴び、落葉を散らす。細かい雨のようだ。

 風雅な露天風呂である。すっかり、ゴキゲンになったけど、あれれ、前の斜面を、若い女の子が上っていく。けっこう、お美しい。
横目で、僕をちら見どころか、おいおい、堂々と見る。これって、覗きかよ!。
後で聞いたら、女性の仇討ちのための湯なんだって。。。確かに、しっかり、見下ろされてました。だから、入り口に「仇討ちの湯 女湯」の掲示があったのかぁ。知らなかったあ!!。
まあさー、いいじゃん。見られて減るもんじゃない。だけど、観賞にたえるとは、とうてい思えん。そりゃ、あーた、マザマザと見られて御覧なさいよ。一人だと恥ずかしいというより、心細くなるんだから。。。
思えば、小学校のころ、銭湯の女湯を木登りして覗いたのは、罪深いものでした。
正直に書くと、そんなに悪い気もしなかった。けれど、手ぬぐいやタオルで隠すっていうのは僕の美意識に反する。男が廃る。
で、どうしたかって?。そりゃ、のぼせましたよ。でれませんもの。
夜半、ちょっとだけ鼻血がでた。

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by nonoyamasadao | 2008-05-06 16:09 | 雑文 | Comments(2)

棘のないバラなんて~

 父の思い出話を書く。ゴールデンウィークになると、庭のバラは一斉に咲いた。
庭中がバラだらけになった。
応接間のテラスには、つるバラが絡んだ。
庭にも、支柱に絡んだつるバラがある。
庭の方はよく記憶している。手入れをしてた父が、梯子から落っこちたからだ。まっ、怪我はなかったけど。
玄関前には、かなり背の高いバラの木があった。コンクリート塀のコーナーには、これも大きな桃色のクイーン・エリザベスが咲く。大輪だ。
まあ、素人が勝手に植えたので、寄せ植え、列植というようなデザインは全くできていない。
ピース、コンフィデンス、クイーン・エリザベス、モンパルナス、名前がついていたのはいくつか、まだ思い出す。

 五月初旬に咲かせると、父は豪語したが、本当にそうなった。
元肥も、油かすや骨粉で作ったし、支柱も立てた。冬になると、オーバーコートを着るように、コモを着せた。散布剤には劇薬もあったようで、引っ越すときに、嫌がる市役所にムリに引き取ってもらった。まあ、父は丹精を込めていた。
五月から初夏にかけて、赤、紅、黄、白、桃などの多様な色が庭に散った。
秋になると、花数は減っていったが、晩秋まで咲いていた。
夜になると、甘い香りが漂ってきた。野生種が多いからだって、父が言っていた。
♪きっとあなたは 赤いバラの  ♪バラの香りが 苦しくて (「ブルーシャトー」)
この詞はホント、その通りだ。

 昨夜、「マンハッタン花物語」を観た。
主人公は、灰色がかった紫のスターリング・ローズをヒロインに贈る。
棘のないバラだ。ヒロインは棘のないバラは完璧すぎない?。。。って言う。
棘のないバラかあ。なんか味気ない。虫のつかないバラとか、クリーム色のモッコウバラとかウソっぽい。香りは、どうでしょう。

 僕が樹木にあこがれ、花に無頓着なのは、父の趣味への抵抗からかもしれない。
幼少より、父が右と言えば、左を選んできた。
たぶん、父はその性癖をどこかのタイミングで察知し、作戦にしてきた節がある。もう聞くすべはないが、父には素直になろうと思う。
今年の一月、バラ(ローズフォーエバー)を買った。もっとも、父はこんなミニチュアはバラではないというかもしれない。今ベランダで、黄色い一花が咲いている。
ダメだとあきらめた、出猩猩(カエデ)の盆栽から、真紅の葉が開く。
いつも、“チラ見”させて頂いてきた「バラの庭づくり oakenbucket オークンバケット のローズレターへようこそ !!」(http://baralog.exblog.jp/)を、じっくり拝見してみよう。

しかし、あれですな。バラならよいけど、薔薇という文字で検索をかけたら、ものすごいことになってる。
これでは、白秋の詩も引用できない。その趣味の人にみなされそうだ。やれやれ。

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by nonoyamasadao | 2008-05-05 14:41 | 雑文 | Comments(0)

ゴールデンウィークが来た

 ゴールデンウィークである。
「ゴールデンウィークにはどこかに行かれますか」と問われなくなって、久しい。
東京にいた頃は、シガラミのなかった36~7歳までは、同じくシガラミのない友人とよく旅に出掛けた。たとえば、こんなふうでした。

先ず、新幹線に乗る。お昼に予約なしで米沢牛の有名店に行き、しゃぶしゃぶを食べる。缶ビールを飲みながら、新緑の上杉神社を散策して、世間の顰蹙を買いじろじろ見られる。
立石寺(山寺)の850段の石段の艱難辛苦を乗り越えたが、笑う膝はおさえられない。天童温泉で一泊。
翌日、最上川下りに興じる。約一時間の船旅。新緑の滴りを浴び、ワンカップなど飲む。鶴岡城址公園などを挙動不審に徘徊などして、酒田温泉で二泊目。川のせせらぎを聴きながら、日本海の酒肴が楽しい。
食後、山口百恵さんにそっくりな仲居さんに見とれる。
明けて明後日、日和山公園から日本海を一望した後、象潟駅で下車する友人を見送り、のどかな風景にボーっとする。一路、東京へ戻る。

まあ、なんとも、あわただしい旅だ。芭蕉の足跡を辿るというのは名目だけで、結局のところ、温泉、美味い物、なかんずく美味い刺身と日本酒があればよかったのだ。
でも、行っておいてよかった。。。などと今にして、そう思う。

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by nonoyamasadao | 2008-05-04 13:57 | 雑文 | Comments(2)

また、騙されているかも

  最近の川上弘美の小説は、どれもこれもみな嫌いである。
文章がなまぐさくて、イヤだ。
「真鶴」や「風花」だと、正直、さすがにつらくなってきた。
昔のーなんかねえ、テンションが低い。くまとお散歩する「神様」など、盛り下がってよいなあ。
湿ったエロスがないから好きだ。

 たぶん、あの文体は完璧な計算が行き届いたものだったろう。

 あちらが“釣り”で、こちらが“釣られ”であっても、
オヤジ・キラーだろうが、そんなこたあどうでもいい。
さみしいよう、と言っているみたいなのがー
やわらかくて、しんみりした。たぶん、恋愛の孤独を読むのが好きなんだと思う。
ブリッコおばさんの川上節が好きなのである。

 でも「リリ、夜の公園」では
「わたしいま、しあわせなのかな」という惹句は大好物だが、
いかにもつくったような、文章が散らばっていて閉口した。
ここまで書くかなあ、下品だと思った。
やっぱ「夜の公園」のテイストは好きじゃない。やっと、わかった。。。
文句あっか!。

  でも「おめでとう」(新潮文庫)の12話のコーダの部分、
と言っても「飛ばし」記号なんかないけど
まあ、最後の「おめでとう」は、
これって、ひょっとして、死ぬほど下手くそじゃないか。
違うかなあー。

 でもこんな十把ひとからげの書き方はブログだって、不見識でしょうね。
最近は「一人で遊ぶのが好きだった。」という書き出しで、
「次に生まれてくるときは、私はぜひ風になりたい。」

 と書いた作家に、ぞっこん首ったけである。
また、計算に騙されてるって?
うん、騙されているかも。。。でも、それでいい。

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by nonoyamasadao | 2008-05-03 15:23 | 川上弘美 | Comments(0)

トキワ荘のその後

 今はそれほどでもないが、ドラマチックな物語が好きだった。人生山あり谷ありの、波瀾の生涯は、傍で見る分には面白い。やがて年を重ね、よそ様でも波瀾は、ちと疲れると思うようになった。だから、最近はほとんど読まない。
今回、採り上げる本は、まさに波瀾万丈のノンフィクション小説といってよいだろう。
長谷邦夫の「漫画に愛を叫んだ男たち」である。この作品は赤塚不二夫へのオマージュであり、酷薄な視線によって、一人の天才の悲惨を描いた作品でもある。
マンガ・ジャーナリズムは比較的容易にデビューできるものの、持続が困難な世界だ。
僕自身も少しの間だが、垣間見た。マンガ媒体は知的労働集約的な風土が色濃い。それは活字媒体にも言えることだが、相対的には、比較にならないくらい劣悪な環境である。
そのことは、優れた編集者が少ないことに起因しているようにも思う。幸いなことに、赤塚不二夫も石森章太郎も優れた編集者に恵まれ、そして支えられた。

 この物語は、映画「アマデウス」同様に、サリエリ的な視点で描かれている。映画では、アマデウス・モーツァルトを追い詰めるサリエリだが、レクイエムの作曲協力をしているうちに、天才音楽家ゆえに、アマデウス・モーツァルトに熱中してのめり込む話だ。
アマデウス・モーツァルトが赤塚不二夫であり、サリエリが長谷邦夫だ。見方を変えると、モーツァルトが石森章太郎であり、サリエリが赤塚不二夫でもある。手塚治虫をマンガ作家の頂点とするなら、石森章太郎でもサリエリとなるかもしれない。マンガ文化は、こうした才能の再帰的入れ子構造を包摂している。
本品は浮き沈みするマンガ家たちの狂騒の日々を容赦なく描き切っている。
著者の赤塚への友情はたとえようもないくらい優しく、美しい。かりに赤塚を「地」に描かれた「図」とするなら、その背景の「地」はマンガである。マンガへの無限の愛が鮮烈なまでにたぎっている。

 マンガへの愛と友情が縦糸なら、横糸に栄光と挫折、夢と破滅があった。限りなく陽性を装おう内面の翳り。。。というより、赤塚のアルコール依存は「鬱」の隠蔽にあったと、長谷は指摘する。
たぶん、それはあまりに鋭敏な神経ゆえのことだろう。
繊細でなければ天才たりえないが、他方で、マンガ・ジャーナリズムのバーバリズムの中で、繊細な神経はズタズタに切り裂かれ、良心を貫いて筆を折った作家(寺田ヒロオ)もいた。だが筆を折った後も、マンガへの愛惜ゆえに、アルコール依存症となる。寺田の衰弱死は一片の感傷もなく綴られた。

 こうした夢と破滅の物語は、昔、体力が有り余っていたころによく読んだ。たとえば、バット・シュールバーグの「何がサミイを走らせたのか」(小泉喜美子訳)や、生島治郎の「雄の時代」に描かれた力道山を思い出した。残酷な描き方だが、確かな描写であった。

 太陽があれば、月がある。赤塚不二夫が太陽なら、長谷邦夫は月である。藤子・F・不二雄が太陽なら、藤子不二雄Aは月だ。別な世界だと、中原誠が太陽なら、芹沢博文は月であり、黒澤明が太陽なら、谷口千吉は月だった。
しばしば、月の方が知的であり、筆が立ったりするから、サリエリ的視線の物語がたくさん、生まれる。
この物語には僕たちがよく知っている作家が実名で、数多く出現する。酷いエピソードも少なくない。
暴露本に堕さなかったのは、著者の憂愁や哀惜が本物だったからだろう。
それにつけても、赤塚との訣別の著者の判断は遅い。それは、緩慢な作家的自殺のようにも映る。
赤塚への友情ゆえのことだろうが、余りに遅く、痛ましい。

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by nonoyamasadao | 2008-05-02 17:10 | 雑文 | Comments(0)